一二一三七坂落
原文
- `これを始めて秩父足利三浦鎌倉野井与横山党には猪俣児玉西党都筑党私の党の兵共惣じて源平乱れ合ひ入れ替はり入れ替はり名乗り替へ名乗り替へ鬨をどつとぞ作りける
- `馳せ違ふる馬の音は雷の如く射違ふる矢は雨の降るに異ならず
- `生田の声は山を響かし或いは薄手負ひて戦ふ者もあり
- `或いは散々に戦ひ手負ひ肩に引き懸けて後ろへ引き退く者もあり
- `或いは引き組み差し違へて死ぬるもあり
- `或いは取つて押さへて首を馘くもあり馘かるもあり
- `いづれ隙ありとも見えざりけり
- `かかりしかども源氏大手ばかりではいかにも叶ふべしとも見えざりしに七日の卯の刻に大将軍九郎御曹司その勢三千余騎鵯越にうち上つて人馬の息休めておはしけるがその勢にや驚きたりけん男鹿二つ妻鹿一つ平家の城廓一谷へぞ落ちたりける
- `平家の方の兵共これを見て
- `里近からん鹿だにも我等に恐れては山深うこそ入るべきに只今の鹿の落ちやうこそ怪しけれ
- `いかさまにもこれは上の山より敵落すにこそ
- `とて大きに騒ぐ処にここに伊予国の住人武智武者所清教進み出でて
- `たとひ何者にてもあらばあれ敵の方より出で来たらんずる者を余すべきやうなし
- `とて男鹿二つ射留めて妻鹿をば射でぞ通しける
- `越中前司これを見て
- `詮ない殿原の鹿の射やうかな
- `只今の矢一筋では敵十人をば防せがんずるものを
- `罪作りに矢だうなに
- `とぞ制しける
- `さるほどに大将軍九郎御曹司義経平家の城廓遥かに見下しておはしけるが
- `馬共落いて見ん
- `とて少々落されけり
- `或いは中にて転んで落つるもあり
- `或いは中にて脚打ち折つて死ぬるもあり
- `されどもその中に鞍置馬三疋相違なく落ち着いて越中前司が屋形の上に身振ひしてこそ立つたりけれ
- `御曹司
- `馬は主々が心得て落さんいはいたう損ずまじかりけるぞ
- `くは落せ
- `義経を手本にせよ
- `とてまづ三十騎ばかり真先駆けて落されければ三千余騎の兵共皆続いて落す
- `小石の混じりの砂子なりければ流れ落しに二町ばかりさつと落いて壇なる所に控へたり
- `それより下を見下せば大磐石の苔生したるが釣瓶下ろしに十四五丈ぞ下つたる
- `それより先へは進むべしとも見えずまた後ろへ取つて返すべきやうもなかりしかば兵共
- `此処ぞ最後
- `と申してあきれて控へたる処に三浦佐原十郎義連進み出でて申しけるは
- `我等が方では鳥一つ立ちても朝夕かやうの所をば馳せ歩け
- `これは三浦の方の馬場や
- `とて真先駆けて落しければ大勢皆続いて落す
- `後陣に落す者の鎧の鼻は先陣の鎧甲にさはるほどなり
- `あまりのいぶせさに目を塞いで落しける
- `えいえい声を忍びにして馬に力を付けて落す
- `大方の人の為業とは見えずただ鬼神の所為とぞ見えし
- `落しも果ねぬに鬨をどつとぞ作りける
- `三千余騎が声なれども山彦答へて十万余騎とぞ聞えける
- `村上判官代康国が手より火を出だいて平家の屋形仮屋を皆焼き払ふ
- `折節風は烈しし黒煙既に押し懸けければ平家の兵共もしや助かると前の海へぞ多く走り入りける
- `渚に助け船共幾らもありけれども船一艘に鎧うたる者の四五百人千人ばかり混み乗つたらうになじかはよかるべき
- `渚より三町ばかり漕ぎ出でて目の前に大船三艘沈みにけり
- `その後はよき武者をば乗すとも雑人原をば乗すべからずとて太刀長刀で薙がせけり
- `かくする事とは知りながら敵に逢ひては死なずして乗せじとする船には取り付き掴み付き或いは臂打ち斬られ或いは肘打ち落されて一谷の汀に朱になつてぞ並み臥したる
- `さるほどに大手にも浜の手にも武蔵相模の若殿原面も振らずし命も惜しまず此処を最後と攻め戦ふ
- `能登殿は度々の軍に一度も不覚し給はぬ人の今度はいかが思はれけん薄墨といふ馬にうち乗つて西を指してぞ落ち給ふ
- `播磨の高砂より御舟に召して讃岐の八島へ渡り給ひぬ