一三一三八越中前司最期
原文
- `新中納言知盛卿は生田森の大将軍にておはしけるが東に向かつて戦ひ給ふ処に山の傍より寄せける児玉党使者を立てて
- `君は一年武蔵国司にてましまし候ふ間これは児玉の者共が中より申し候ふ
- `未だ御後をば御覧ぜられ候はぬやらん
- `と申しければ新中納言以下の人々後ろを顧み給へば黒煙押しかけたり
- `あはや西の手が破るるとは
- `と云ふほどこそありけれ我先に我先にとぞ落ち行きける
- `越中前司盛俊は山の手の侍大将にてありけるが今は落つとも叶はじとや思ひけん控へて敵を待つ処にここに武蔵国の住人猪俣小平六則綱よい敵と目をかけ鞭鐙を合はせて馳せ来たり押し並べてむずと組んで猪俣は八箇国に聞えたる強か者なり
- `鹿の角の一二の草刈をば容易く引き裂けるとぞ聞えし
- `越中前司も人目には二三十人が力業なすといへども内々は六七十人して上げ下ろすほどの舟をただ一人して押し上げ押し下ろすほどの大力なりけり
- `されば猪俣を取つて押さへて働かさず
- `猪俣下に臥しながらあまりに強う押さへられてものを云はうとすれども声もせず刀を抜かうとすれども指の股開かつて刀の柄を握るにも及ばず
- `猪俣は力こそ劣つたれども心は剛なりければ暫く息を休めてさらぬ体にもてないて
- `抑も名乗りつるを聞き給ひたるか
- `敵の首を取るといふは我も名乗つて聞かせ敵にも名乗らせて首を取つたればこそ大切なれ
- `名も知らぬ首取つては何にかはし給ふべき
- `と云ひければ越中前司げにもとや思ひけん
- `元は平家の一門たりしが身不肖なるによつて当時は侍に放されたる越中前司盛俊といふ者なり
- `和君は何者ぞ名乗れ聞かう
- `と云ひければ
- `武蔵国の住人猪俣小平六則綱といふ者なり
- `今は主の世にましませばこそ敵の首取つて勲功の賞にも預り給ふべき
- `ただ理を枉げて則綱が命を助けさせおはしませ
- `さだにも候はば御辺の一門何十人もおはせよ今度の勲功の賞に申し替へて御命ばかりをば助け奉らん
- `と云ひければ越中前司大きに怒つて
- `盛俊身不肖なれどもさすが平家の一門なり
- `盛俊源氏を頼まうとも思ひも寄らず源氏また盛俊に頼まれうともよも思ひ給はじ
- `憎い君が申しやうかな
- `とて既に首を馘かんとしければ
- `正なう候ふ
- `降人の首馘くやうやある
- `と云ひければ
- `さらば助けん
- `とて引き起す
- `前は畑のやうに干上がつて極めて堅かりけるが後は水田のごみ深かりける
- `畔の上に二人ながら者腰うち懸けて息吐き居たり
- `ややあつて黒革威の鎧着て月毛なる馬に乗つたる武者一騎鞭鐙を合はせて馳せ来たる
- `越中前司怪しげに見ければ
- `あれは猪俣に親しう候ふ人見四郎と申す者にて候ふが則綱が在るを見て詣で来たると覚え候ふ
- `苦しう候ふまじ
- `と云ひながら
- `あれが近付くほどならばしや組まんずる者を落ち合はぬ事はよもあらじ
- `と思ひて待つ処にあはひ一段ばかりに近づきたり
- `越中前司初めは両人を一目づつ見けるが次第に近づく敵をはたと目守つて則綱を見ぬ隙に猪俣力足を踏んで立ち上がり拳を強く握り越中前司が鎧の胸板をはくと突いて後の水田へ仰けに突き倒す
- `起き上がらんとする処を猪俣上に乗つかかり越中前司が腰の刀を抜き鎧の草摺引き上げて柄も拳も通れ通れと三刀刺いて首を取る
- `さるほどに人見四郎も出で来たり
- `かやうの時は論ずる事もありとてやがて首をば太刀の鋒に貫き高く差し上げ大音声を揚げて
- `この日比鬼神と聞えつる越中前司盛俊をば武蔵国の住人猪俣小平六則綱が討つたるぞや
- `と名乗つてその日の一の筆にぞ付きにける