一六一四一敦盛
原文
- `さるほどに一谷の軍敗れにしかば武蔵国の住人熊谷次郎直実
- `平家の君達助け舟に乗らんとて汀の方へや落ち行き給ふらん
- `あつぱれよき大将軍に組まばや
- `と思ひ渚を指して歩まする処にここに鶴縫うたる直垂に萌黄匂の鎧着て鍬形打つたる甲の緒を締め金作の太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ滋籐の弓持ち連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたる武者一騎沖なる舟を目にかけ海へさつとうち入れ五六段ばかり泳がせける
- `熊谷
- `あれはいかによき大将軍とこそ見参らせ候へ
- `正なうも敵に後ろを見せ給ふものかな
- `返させ給へ返させ給へ
- `と扇を挙げて招きければ招かれて取つて返し渚に打ち上がらんとし給ふ処に波打際にて押し並びむずと組んでどうと落ち取つて押さへて首を馘かんとて内甲を押し仰けて見たりければ年の齢十六七ばかりなるが薄仮粧して鉄漿黒なり
- `我が子の小次郎が齢ほどにて容顔まことに美麗なりければ何処に刀を立つべしとも覚えず
- `熊谷
- `いかなる人にて渡らせ給ひやらん
- `名乗らせ給へ
- `助け参らせん
- `と申せば
- `汝は誰そ
- `名乗れ聞かう
- `物その者では候はねども武蔵国の住人熊谷次郎直実
- `と名乗り申す
- `汝が為にはよい敵ぞ
- `名乗らずとも首を取つて人に問へ
- `見知らうずるぞ
- `とぞ宣ひける
- `熊谷
- `あつぱれ大将軍や
- `この人一人討ち奉りたりとも負くべき軍に勝つ事はよもあらじ
- `また助け奉るとも勝つ軍に負くる事もよもあらじ
- `我が子の小次郎が薄手負うたるをだに直実は心苦しう思ふぞかし
- `この殿の父討たれ給ひぬと聞き給ひてさこそは嘆き悲しび給はんずらめ
- `助け参らせん
- `とて後ろを顧みたりければ土肥梶原五十騎ばかりで出で来たり
- `熊谷涙をはらはらと流いて
- `あれ御覧候へ
- `いかにもして助け参らせんとは存じ候へども御方の軍兵雲霞の如くに満ち満ちてよも遁れ参らせ候はじ
- `あはれ同じうは直実が手に懸け奉つてこそ後の御孝養をも仕り候はめ
- `と申しければ
- `ただいかやうにも疾う疾う首を取れ
- `とぞ宣ひける
- `熊谷あまりにいとほしくて何処に刀を立つべしとも覚えず
- `目も眩れ心も消え果てて前後不覚に覚えけれどもさてしもあるべき事ならねば泣く泣く首をぞ馘いてける
- `あはれ弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし
- `武芸の家に生れずば何しに只今かかる憂き目をば見るべき
- `情なうも討ち奉つたるものかな
- `と袖を顔に押し当てさめざめとぞ泣き居たる
- `首を包まんとて鎧直垂を解いて見ければ錦の袋に入れられたりける笛をぞ腰に差されたる
- `あないとほし
- `この暁城の内にて管絃し給ひつるはこの人々にておはしけり
- `当時御方に東国の勢何万騎かあるらめども軍の陣へ笛持つ人はよもあらじ
- `上臈はなほも優しかりけるものを
- `とてこれを取つて大将軍の御見参に入れたりければ見る人涙を流しけり
- `後に聞けば修理大夫経盛の子息大夫敦盛とて生年十七にぞ成られける
- `それよりしてこそ熊谷が発心の心は出来にけれ
- `件の笛は祖父忠盛笛の上手にて鳥羽院より下し賜はられたりしを敦盛の器量たるによつてこの笛をぞ持たれたりける
- `名をば
- `小枝
- `とぞ申しける
- `狂言綺語の理
- `と云ひながらつひに讃仏乗の因となるこそ哀れなれ