一七一四二知章最期
原文
- `門脇殿の末子蔵人大夫業盛は常陸国の住人土屋五郎重行と組んで討たれ給ひぬ
- `皇后宮亮経正は助け舟に乗らんとて汀の方へ落ち給ふ処に河越小太郎重房が手に取り籠め奉りてつひに討ち奉る
- `尾張守清定淡路守清房若狭守経俊三騎連れて敵の中へ破つて入り散々に戦ひ分捕り数多して一所で討死してけり
- `新中納言知盛卿は生田森の大将軍にておはしけるがその勢皆落ち失せ討たれにしかば御子武蔵守知章侍に監物太郎頼方主従三騎汀の方細道に駆けて落ち給ふ
- `ここに児玉党と思しくて団扇の旗差したる者共十騎ばかり鞭鐙を逢はせて押し懸け奉る
- `監物太郎は究竟の弓の上手なりければ取つて返し真っ先に進んだる旗差が首の骨をひやうつはと射て馬より倒に射落す
- `その中の大将と思しき者新中納言に組み奉らんと馳せ並ぶる処に御子武蔵守知章父を討たせじと中に隔たり押し並べむずと組んでどうと落ち取りて押さへて首を馘き立ち上がらんとし給ふ処に敵が童落ち合はせて武蔵守の首を取る
- `監物太郎落ち重なり武蔵守討ち奉つたりける敵が童をも討つてけり
- `その後矢種のあるほど射尽くし打物抜いて戦ひけるが弓手の膝口を強かに射させ起きも上らで居ながら討死してけり
- `この紛れに新中納言知盛卿は其処をつつと逃げ延びて究竟の息長き名馬には乗給ひぬ
- `海の面二十余町泳がせて大臣殿の御舟へぞ参られける
- `舟には人多く取り乗つて馬立つべきやうもなかりければ馬をば渚へ追い返さる
- `阿波民部重能片手矢番ひて
- `御馬既に敵の物となり候ひなんず
- `射殺し候はん
- `とて出でければ新中納言
- `只今我が命助けたらんずるものをあるべうもなし
- `と宣へば力及ばで射ざりけり
- `この馬主の別れを惜しみつつ暫しは船をも離れやらず沖の方へぞ泳ぎけるが次第に遠くなりければ空しき渚に泳ぎ帰り足立つほどにもなりしかばなほ船の方を顧みて二三度までこそ嘶きけれ
- `その後陸に上がつて休み居たりけるを河越小太郎重房取つて院へ参らせたり
- `元もこの馬院の御秘蔵にて一の御厩に立てられたりしを一年宗盛公内大臣に成りて悦び申しのありし時下し賜はられたりしを弟中納言に預けられたりしかばあまりに秘蔵してこの馬の祈りの為にとて毎月朔日毎に泰山府君をぞ祭られける
- `その故にや馬の命も長く主の命をも助けけるこそめでたけれ
- `この馬元は信濃国井上立ちにてありければ
- `井上黒
- `とぞ召されしか
- `今度は河越が取つて院へ参らせたりければ
- `河越黒
- `とぞ召されける
- `その後新中納言知盛大臣殿の御前におはして涙を流いて申されけるは
- `武蔵守にも後れ候ぬ
- `監物太郎をも討たせ候ぬ
- `今は心細うこそ罷り成つて候へ
- `されば子はあつて父を討たせじと敵に組むを見ながらいかなる父なれば子の討たるるを助けずして遁れ参りて候ふやらん
- `あはれ人の上ならばいかばかりもどかしう候ふべきに我が身の上になり候へばよう命は惜しいものにて候ひけりと今こそ思ひ知られて候へ
- `人々の思し召さん御心の内共こそ恥づかしう候へ
- `とて袖を顔に押し当ててさめざめと泣きければ大臣殿
- `まことに武蔵守の父の命に代はられけるこそ有難けれ
- `手も利き心も剛にしてよき大将軍にておはしつる人をあの清宗と同年にて今年は十六な
- `とて御子右衛門督のおはしける方を見給ひて涙ぐみ給へばその座に幾らも並居給へる人々心あるも心なきも皆鎧の袖をぞ濡らされける