四一四八請文
原文
- `大臣殿より平大納言の許へ院宣の趣を申されけり
- `二位殿中将の文を開けて見給ふに
- `今一度重衡今生にて御覧ぜんと思し召され候はば三種神器の御事をよきやうに申させ給ひて都へ返し入れさせ給へ
- `さ候はでこの世にて御目に懸かるべしとも覚え候はず
- `とぞ書かれたる
- `二位殿中将の文を顔に押し当てて人々のおはしける後ろの障子を引き開けて大臣殿の御前に倒れ臥し暫しは物も宣はず
- `ややあつて起き上がり涙を押さへて宣ひけるは
- `京より中将が云ひ起したる事の無慙さよ
- `げにも心の内にいかばかりの事をか思ふらん
- `三種神器の御事をばただ我に思ひ許して都へ入れさせ給へ
- `と宣へば大臣殿申されけるは
- `宗盛もさこそは存じ候へども兵衛佐頼朝が返り聞かんずるところも返す返す云ふかひなう候ふべし
- `その上帝王の御世を保たせ給ふ御事も偏にこの内侍所の渡らせ給ふ故なり
- `且つは世の聞えも然るべからず
- `且つは余の子共親しい人々をば中将一人に思し召し替へさせ給ふべきか
- `この愛しいも事にこそより給へ
- `努々叶ひ候ふまじ
- `とぞ申されける
- `二位殿重ねて宣ひけるは
- `我故入道相国に後れて後一日片時も命生きて長らふべしとも覚えねども主上いつとなく旅立たせ給ふ御事の心苦しさまた君をも今一度代に在らせ奉らんと思ふ故にこそ憂きながら今日まで長らへたれ
- `中将一谷にて生捕にせられぬと聞きし後はいとど胸塞きて湯水も喉へ入られず中将この世になき者と聞かば我も同じ道に赴かんと思ふなり
- `二度物思はせぬ先にただ我を失へや
- `とて喚き叫び給へばまことにさこそはと覚えて人々皆伏し目にぞなられける
- `新中納言知盛卿の異見に申されけるは
- `三種神器を都へ返し入れ奉りたりとも重衡を返し給はらん事は有難し
- `ただそのやうを憚りなう申させ給ふべうもや候ふらん
- `と申されければ
- `この儀尤も然るべし
- `とて大臣殿御請文を申さる
- `二位殿は涙に暮れて筆の立所も覚え給はねども志を知る辺に泣く泣く御返事書き給へり
- `北方大納言典侍殿も涙に咽び俯してとかくの事をも宣はず引き被いてぞ臥し給ふ
- `重国もまことに哀れに覚えて涙を押さへて立ちにけり
- `平大納言時忠卿御坪召次花方を召して
- `法皇の御使として多くの波路を凌いで遥々とこれまで下りたる印に汝一期が間の思ひ出一つあるべし
- `とて花方が面に
- `波方
- `といふ焼印をぞせられける
- `都へ帰り上りたりければ法皇叡覧あつて
- `汝花方か
- `さん候ふ
- `よしよしさらば力及ばず
- `波方
- `とも召せかし
- `とて笑はせおはします
- `その後請文をぞ開かれける
- ``今月十四日院宣同二十八日讃岐国八島磯到来謹以承処如㆑件
- ``但就㆑此案㆑彼通盛卿以下当家数輩摂州一谷既破誅了
- ``何可㆑悦㆓重衡一人寛宥㆒哉
- ``夫吾君受㆓故高倉院御譲㆒御在位既四箇年政訪㆓尭舜古風㆒処東夷北狄結㆑党成㆑群入洛間且幼帝母后御嘆尤深且依㆓外戚近臣憤不㆒㆑浅暫幸㆓九国㆒
- ``於㆑無㆓還幸㆒三種神器争可㆑奉㆑離㆓玉体㆒哉
- ``其臣以㆑君為㆑心君安則臣安臣安則国安
- ``君上憂臣下不㆑楽
- ``心中有㆑愁体外無㆑悦
- ``曩祖平将軍貞盛自㆑追討㆓相馬小次郎将門㆒以来靖㆓東八箇国㆒伝㆓子子孫孫㆒誅罰㆓朝敵謀臣㆒至㆓代代世世㆒奉㆑守㆓朝家聖運㆒
- ``然則故亡父太政大臣保元平治両度逆乱時重㆓勅之命㆒軽㆓私之命㆒
- ``是偏為㆑君全不㆑為㆑身
- ``就中彼頼朝去平治元年十二月依㆓父左馬頭義朝謀反㆒已可㆑被㆓誅罰㆒由頻雖㆑被㆓仰下㆒故入道相国慈悲余所㆑被㆓申許㆒也
- ``然忘㆓昔洪恩㆒不㆑存㆓芳意㆒忽以㆓狼羸身㆒猥成㆓蜂起乱㆒
- ``至愚甚申有㆑余
- ``早招㆓神明天罰㆒密期㆓敗績損滅㆒者乎
- ``夫日月為㆓一物㆒不㆑暗㆓其明㆒
- ``明王為㆓一人㆒不㆑枉㆓其法㆒
- ``以㆓一悪㆒不㆑捨㆓其善㆒以㆓少瑕㆒莫㆑覆㆓其功㆒
- ``且当家数代奉公且亡父数度忠節不㆓思召忘㆒君辱可㆑有㆓四国御幸㆒乎
- ``時臣等承㆓院宣㆒二還㆓旧都㆒雪㆓会稽恥㆒
- ``若不㆑然可㆑到㆓鬼界高麗天竺震旦㆒
- ``悲哉当㆓人王八十一代御宇㆒我朝神代霊宝遂空作㆓異国宝㆒乎
- ``宜以㆓是等趣㆒可㆑然様令㆓洩奏聞㆒
- ``宗盛頓首謹言
- ``寿永三年二月二十八日
- ``従一位前内平朝臣宗盛請文
- `とこそ書かれたれ
書下し文
一
- ``今月十四日の院宣同じき二十八日讃岐国八島の磯に到来謹んで以て承る処件の如し
- ``但しこれに就いて彼を案ずるに通盛卿以下当家数輩摂州一谷にして既に誅せられ了んぬ
- ``何ぞ重衡一人の寛宥を悦ぶべきや
- ``それ我が君は故高倉院の御譲を受けさせ給ひて御在位既に四箇年政尭舜の古風を訪ふ処に東夷北狄党を結び群を成して入洛の間且つは幼帝母后の御嘆き尤も深く且つは外戚近臣の憤り浅からざるによつて暫く九国に幸ず
- ``還幸無からんに於いては三種神器いかでか玉体を離ち奉るべきや
- ``それ臣は君を以て心とし君安ければ則ち臣安く臣安ければ則ち国安し
- ``君上に憂ふれば臣下に楽しまず
- ``心中に愁有れば体外に悦び無し
- ``曩祖平将軍貞盛相馬小次郎将門を追討せしより以来東八箇国を鎮めて子々孫々に伝へ朝敵の謀臣を誅罰して代々世々に至るまで朝家の聖運を守り奉る
- ``然れば則ち故亡父太政大臣保元平治両度の逆乱の時勅の命を重んじて私の命を軽んず
- ``これ偏に君の為にして全く身の為にせず
- ``就中かの頼朝は去んぬる平治元年十二月父左馬頭義朝が謀反によつて既に誅罰せらるべき由頻りに仰せ下さるるといへども故入道相国慈悲のあまり申し宥められしところなり
- ``然るに昔の洪恩を忘れて芳意を存ぜず忽ちに狼羸の身を以て猥りに蜂起の乱を成す
- ``至愚の甚しき事申して余り有り
- ``早く神明の天罰を招き密かに敗績の損滅を期する者か
- ``それ日月は一物の為にその明らかなる事を暗うせず
- ``明王は一人が為にその法を枉げず
- ``一悪を以てその善を捨てず少瑕を以てその功を覆ふ事なかれ
- ``且つは当家数代の奉公且つは亡父数度忠節思し召し忘れずは君忝く四国の御幸有るべきか
- ``時に臣等院宣を承り二度旧都に還つて会稽の恥を雪めん
- ``もし然らずは鬼界高麗天竺震旦に到るべし
- ``悲しきかな人王八十一代の御宇に当たつて我が朝神代の霊宝つひに空しく異国の宝となさんか
- ``宜しくこれらの趣を以て然るべきやうに洩らし奏聞せしめ給へ
- ``宗盛頓首謹言
- ``寿永三年二月二十八日
- ``従一位前内平朝臣宗盛請文