六一五〇海道下
原文
- `さるほどに本三位中将重衡卿をば鎌倉前兵衛佐頼朝頻りに申されければ
- `さらば下さるべし
- `とて土肥次郎実平が手より九郎御曹司の宿所へ渡し奉る
- `同じき三月十日梶原平三景時に具せられて関東へこそ下られけれ
- `西国にていかにも成るべかりし身の生きながら囚はれて都へ上り給ふだに口惜しきにいつしかまた関東へ赴かれけん心の内推し量られて哀れなり
- `四宮河原になりぬれば此処は昔延喜第四王子蝉丸の関の嵐に心を澄まし琵琶を弾き給ひしに博雅三位といつし人風の吹く日も吹かぬ日も雨の降る夜も降らぬ夜も三年が間歩みを運び立ち聞きてかの三曲を伝へけん藁屋の床の古も思ひやられて哀れなり
- `逢坂山うち越えて勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし雲雀揚がれる野路の里志賀浦波春かけて霞に曇る鏡山比良の高根を北にして伊吹の岳も近づきぬ
- `心を留むとしなけれども荒れて中々優しきは不破の関屋の板廂いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の
- `唐衣きつつなれにし
- `と眺めけん三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり
- `浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音さらでも旅は物憂きに心を尽くす夕間暮れ池田の宿にも着き給ひぬ
- `かの宿の長者熊野が娘侍従が許にその夜は宿せられけり
- `侍従三位中将と見奉つて
- `日比伝てにだに思ひ寄らざりし人の今日はかかる所へ入らせ給ふ事の不思議さよ
- `とて一首の歌を奉る
- `旅のそら赤土小屋のいぶせさにふるさといかにこひしかるらん
- `中将の返事に
- `故里も恋しくもなし旅のそらみやこもつひのすみかならねば
- `中将
- `優しうも仕つたるものかな
- `この歌の主は誰と云ふやらん
- `と問はれければ景時畏つて申しけるは
- `君は未だ知ろし召され候はずや
- `あれこそ八島の大臣殿の未だ当国の守にて渡らせ給候ひし時召され参らせて御最愛にて候ひしが老母をこれに留め置き暇を申ししかども給はらざりければ比は弥生の始めなりけるに
- `いかにせん都の春もをしけれどなれし吾妻の花やちるらん
- `と仕り暇を賜はつて罷り下り候ひし海道一の名人にて候へ
- `とぞ申しける
- `都を出でて日数経れば弥生も半ば過ぎ春も既に暮れなんとす
- `遠山の花は残んの雪かと見えて浦々島々霞み渡り来し方行く末の事共を思ひ続け給ふにも
- `こはさればいかなる宿業のうたてさぞ
- `と宣ひてただ尽きせぬものは涙なり
- `御子の一人もおはせぬ事を母の二位殿も嘆き北方大納言典侍殿も本意なき事にして万の神仏に祈り申されけれどもその験なし
- `畏うぞなかりける
- `子だにもあらましかばいかに心苦しからん
- `と宣ひけるこそせめての事なれ
- `佐夜の中山にかかり給ふにもまた越ゆべしとも覚えねばいとど哀れの数添ひて袂ぞいたく濡れ増さる
- `宇津の山辺の蔦の道心細くもうち越えて手越を過ぎて行けば北に遠ざかつて雪白き山あり
- `問へば甲斐の白根といふ
- `その時三位中将落つる涙を押さへつつ
- `をしからぬいのちなれ共けふまでにつれなきかひのしらねをもみつ
- `清見関うち越えて富士の裾野になりぬれば北には青山峨々として松吹く風索々たり
- `南には蒼海漫々として岸打つ波も茫々たり
- `恋せば痩せぬべし恋せずともありけり
- `と明神の歌ひ始め給ひけん足柄の山うち越えてこゆる木の森鞠子川小磯大磯の浦々八的砥上原御輿崎をもうち過ぎて急がぬ旅とは思へども日数漸う重なれば鎌倉へこそ入り給へ