八一五二横笛
原文
- `さるほどに小松三位中将維盛卿は身柄は八島にありながら心は都へ通はれけり
- `故郷に留め置き給ひし幼き人々の面影のみ身にひしと立ち添ひて忘るる隙もなかりければ
- `あるにかひなき我が身かな
- `とて寿永三年三月十五日の暁忍びつつ八島の館をば紛れ出で与三兵衛重景石童丸といふ童舟に心得たればとて武里といふ舎人これら三人を召し具して阿波国結城浦より舟に乗り鳴戸浦を漕ぎ過ぎて紀伊路へ赴き給ひけり
- `和歌吹上衣通姫の神と現れ給へる玉津島の明神日前国懸の御前を過ぎて紀伊の湊にこそ着き給へ
- `これより山伝ひに都へ上り恋しき者共を今一度見もし見えばやとは思はれけれども
- `本三位中将殿生捕にせられて大路を渡され京鎌倉恥を曝し給ふだにも口惜しきにこの身さへ囚はれて父の屍に血をあやさん事も心憂し
- `とて千度心は進めども心に心をからかひて高野の御山に参り給ふ
- `高野に年比知り給へる聖あり
- `三条斎藤左衛門茂頼が子に斎藤滝口時頼とて元は小松殿の侍なり
- `十三の年本所へ参りたりしが建礼門院の雑司に横笛といふ女あり
- `滝口これに最愛す
- `父この由を伝へ聞きて
- `世にあらん者の婿子にも成し出仕などをも心安うせさせんとすれば由なき者を思ひ初めて
- `など強ちに諫めければ滝口申しけるは
- `西王母といつし人も昔はありて今はなし
- `東方朔と聞えし者も名をのみ聞きて目には見ず
- `老少不定の世の中ただ石火の光に異ならず
- `たとひ人長命といへども七十八十をば過ぎずその中に身の盛りなる事は僅かに二十余年なり
- `夢幻の世の中に醜き者を片時も見て何かせん
- `思はしき者を見んとすれば父の命を背くに似たり
- `これ善知識なり
- `如かじ憂き世を厭ひまことの道に入りなん
- `とて十九の年髻を切つて嵯峨の往生院に行ひ澄ましてぞ居たりける
- `横笛この由を伝へ聞いて
- `我をこそ捨てめ様をさへ変へけん事の恨めしさよ
- `たとひ世をば背くともなどかはかくと知らせざるべき
- `人こそ心強くとも尋ねて恨みん
- `と思ひつつある暮れ方に都を出で嵯峨の方へぞ憧れける
- `比は如月十日余りの事なれば梅津の里の春風に余所の匂ひも懐かしく大井川の月影も霞に籠めて朧なり
- `一方ならぬ哀れさも誰故とこそ覚えけめ
- `往生院とは聞きつれども定かにいづれの坊とも知らざれば此処に休らひ彼処に佇み尋ねかぬるぞ無慙なる
- `住み荒らしたる僧房に念誦の声しけり
- `滝口入道が声と聞きなして
- `様の変はりておはすらんをも見もし見え参らせんが為にわらはこそこれまで尋ね参つて候へ
- `と具したる女に云はせければ滝口入道胸うち騒ぎあさましさに障子の隙より覗いて見れば裾は露袖は涙に萎れつつまことに尋ねかねたる有様いかなる道心者共も心弱うなりぬべし
- `人を出だいて
- `全くこれにはさる事なし
- `もし門違へにてやら候ふらん
- `とてつひに逢はでぞ返しける
- `横笛情なう恨めしけれども力及ばず涙を押さへて帰りけり
- `その後滝口入道同宿の僧に語りけるは
- `これも世に静かにて念仏の障碍は候はねども飽かで別れし女にこの住まひを見えて候へばたとひ一度は心強くともまたも慕ふ事あらば心も働き候ひなんず
- `暇申して
- `とて嵯峨をば出でて高野へ上り清浄心院にぞ居たりける
- `横笛も様を変へぬる由聞えしかば滝口入道一首の歌をぞ送りける
- `そるまでは恨みしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき
- `横笛が返事に
- `そるとても何かうらみんあづさ弓引とどむべきこころならねば
- `その後横笛は奈良の法華寺にありけるとか
- `その思ひの積りにや幾ほどなくてつひにはかなくなりにけり
- `滝口入道この由を伝へ聞いていよいよ深う行ひ澄まして居たりければ父も不孝を許しけり
- `親しき者共皆用ひて高野聖とぞ申しける
- `三位中将それに尋ね逢ひて見給ふに都にありし時は布衣に立烏帽子衣文をかい繕ひ鬢を撫で華やかなりし男なり
- `出家の後は今日初めて見給ふに未だ三十にも成らざるが老僧姿に痩せ黒みて濃墨染に同じ袈裟香の煙に染み薫り賢しげに思ひ入りたる道心者羨ましうや思はれけん
- `晋七賢漢四晧が住みけん商山竹林の有様もこれには過ぎじとぞ見えし