九一五三高野巻
原文
- `滝口入道三位中将を見奉りて
- `こは現とも覚え候はぬものかな
- `抑も八島をば何としてかは遁れさせ給ひて候ふやらん
- `と申しければ三位中将
- `さればとよ都をば人並々に出でて西国へ落ち下りたりしかども故郷に留め置し恋しき者共が面影の身にひしと立ち添ひて忘るる隙もなかりしかばその物思ふ心云はぬに著くや見えけん大臣殿も二位殿も
- `この人は池大納言のやうに二心あり
- `など思ひ隔て給ふ間いとど心も留まらず憧れ出でたんなり
- `これより山伝ひに都へ上り恋しき者共を今一度見もし見えばやとは思へども本三位中将殿の御事心憂けれそれも叶はず
- `これにて出家して火の中水の底へも入りなばやとは思へども熊野へ参らんと思ふ宿願あり
- `と宣へば滝口入道申しけるは
- `夢幻の世の中はとてもかくても候ひなんず
- `ただ長き世の闇こそ心憂かるべう候へ
- `とぞ申しける
- `やがてこの滝口入道を先達にて堂塔巡礼して奥院へぞ参られける
- `高野山は帝城を去つて二百里郷里を離れて無人声清嵐梢を鳴らし夕日の影閑かなり
- `八葉の峰八つの谷まことに心も澄みぬべし
- `花の色は林霧の底に綻び鈴の音は尾上の雲に響けり
- `瓦に松生ひ垣に苔生して星霜久しく覚えたり
- `昔延喜御門の御時御夢想の御告げあつて檜皮色の御衣を参らさせ給ふに勅使中納言資澄卿般若寺僧正観賢を相具してこの御山に登り御廟の扉を押し開き御衣を着せ奉らんとしけるに霧厚う隔たつて大師拝まれさせ給はず
- `ここに観賢深く愁涙して
- `我悲母の胎内を出でて師匠の室に入りしより以来未だ禁戒を犯せず
- `さればなどか拝まれざるべき
- `とて五体を地に投げ発露啼泣し給へば漸う霧晴れて月の出づるが如くに大師拝まれさせ給ひけり
- `時に観賢随喜の涙を流いて御衣を着せ奉り御髪の長く生ひさせ給ひけるをも剃り奉るぞ有難き
- `勅使と僧正は拝み給へども僧正の御弟子石山内供淳祐その時は未だ童形にて供奉せられたりしが大師を拝み奉らずして深う嘆き沈んでおはしけるを僧正手を取つて大師の御膝に押し当てられたりければその手一期が間香ばしかりけるとかや
- `その移り香は石山の聖教に残つて今にありとぞ承る
- `大師御門の御返事に申させ給ひけるは
- ``我昔値㆓薩埵㆒面悉伝㆓印明㆒
- ``発㆓無比誓願㆒陪㆓辺地異域㆒
- ``昼夜憐㆓万民㆒住㆓普賢悲願㆒
- ``肉身証㆓三昧㆒待㆓慈氏下生㆒
- `とぞ申させ給ひける
- `かの摩訶迦葉の鶏足洞に籠つて翅都の春風を期し給ふらんもかくやとぞ覚えける
- `御入定は承和二年三月二十一日の寅の一点の事なれば過ぎにし方は三百余歳行末もなほ五十六億七千万歳の後慈尊の出世三会の暁を待たせ給ふらんこそ久しけれ
書下し文
一
- ``我昔薩埵に逢ひてまのあたり悉く印明を伝ふ
- ``無比の誓願を発して辺地の異域に侍り
- ``昼夜に万民を憐れんで普賢の悲願に住せり
- ``肉身に三昧を証じて慈氏の下生を待つ