一〇一五四維盛出家
原文
- `維盛が身のいつとなく雪山の鳥の鳴くらんやうに
- `今日よ明日よ
- `と思ふものを
- `とて涙ぐみ給ふぞ哀れなる
- `潮風に黒み尽きせぬ物思ひに痩せ衰へてその人とは見え給はねどもなほ世の人には勝れ給へり
- `その夜は滝口入道が庵室に帰つて昔今の物語共し給ひけり
- `更けゆくままに聖が行儀を見給へば至極甚深の床の上には真理の玉を磨くらんと見えて後夜晨朝の鐘の声には生死の眠りを覚ますらんとも覚えたり
- `遁れぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん
- `明けければ東禅院の智覚上人といふ聖を請じて出家せんとし給ひけるが与三兵衛重景石童丸を召して宣ひけるは
- `維盛こそ人知れぬ思ひを身に添へながら道狭う遁れ難き身なればいかにも成るといふともこの比は世にある人こそ多けれ我いかにも成りなん後急ぎ都へ上つて各が身をも助け且つは妻子をも育み且つは維盛が後世をも弔へかし
- `と宣へば二人の者共涙に咽び臥して暫しはとかうの御返事にも及ばず
- `ややあつて起き上がり重景涙を押さへて申しけるは
- `重景が父与三左衛門景康は平治の逆乱の時故殿の御供に候ひて二条堀川の辺にて鎌田兵衛に組んで悪源太に討たれぬ
- `重景もなじかは劣り候ふべきなれどもその時は未だ二歳に成り候へば少しも覚え候はず
- `母には七歳で後れ候ひぬ
- `情をかくべき親しき者一人も候はざりしに故大臣殿重景を御前へ召して
- `あれは我が命に替はりたる者の子なれば
- `とて朝夕御前にて育てられ参らせて生年九つと申しし時君の御元服候ひし夜忝くも頭を取り上げられ参らせて
- `盛
- `の字は家の字なれば五代に付く
- `重
- `の字をば松王に
- `と仰せられて
- `重景
- `とは召され参らせてけるなれ
- `その上童名を
- `松王
- `と申しける事も生れて忌み五十日と申すに父が抱いて参りしかば
- `この家を
- `小松
- `と云へば祝うて付くるなり
- `と仰せられて
- `松王
- `とは付けられ参らせて候ひけるなり
- `親の良うて死にけるも我が身の冥加と覚え候ふ
- `随分同隷共にも芳心せられてこそ罷り過ぎ候ひしか
- `されば御臨終の御時もこの世の事をば思し召し捨て一事も仰せられざりしに故大臣重景を御前へ召して
- `あな無慙汝は重盛を父が形見と思ひ重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ぐしつれ
- `今度の除目に靱負尉に成して父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思し召しつるに空しうなるこそ悲しけれ
- `相構へて少将殿の御心にばし違ひ参らすな
- `とこそ仰せ候ひしか
- `日比は自然の事も候はば見捨参らせて落つべき者と思し召され候ひける御心の内こそ恥づかしう候へ
- `この比は世にある人こそ多けれ
- `と仰せ蒙り候ふは当時の如くは皆源氏の郎等共こそ候ふらめ
- `君の神にも仏にも成らせ給ひなん後楽しみ栄え候ふとも千年の齢を経るべきか
- `たとひ万年を保つとも終には終り無かるべきかは
- `これに過ぎたる善知識何事か候ふべき
- `とて手づから髻切つて泣く泣く滝口入道に剃らせける
- `石童丸もこれを見て本結際より髪を切る
- `これも八つより付き参らせて重景にも劣らず不便にし給ひしかば同じう滝口入道にぞ剃られける
- `これらがかやうに先立ちて成るを見給ふにつけてもいとど心細うぞなられける
- `変はらぬ姿を今一度恋しき者共にも見もし見えて後かくならば思ふ事あらじ
- `と宣ひけるこそせめての事なれ
- `さてしもあるべき事ならねば
- `流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者
- `と三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり
- `三位中将と与三兵衛は同年にて今年は二十七歳なり
- `石童丸は十八にぞ成りける
- `舎人武里を召して
- `あなかしこ汝これより都へは上るべからず
- `その故はつひには隠れあるまじけれども正しうこの有様を聞きてはやがて様をも変へんずらんと覚ゆるぞ
- `八島へ参つて人々に申さんずる事はよな
- `且つ御覧候ひしやうに大方の世間も物憂くあぢきなさも万数添ひて覚え候ひしほどに人々にも知らせ参らせずしてかやうになり候ふ事は西国にて左中将失せ候ひぬ
- `一谷にて備中守討たれ候ひぬ
- `維盛さへかやうになり候ひぬればいかに各の便りなう思し召され候はんずらんとそれのみこそ心苦しう候へ
- `抑も唐皮といふ鎧小烏といふ太刀は平将軍貞盛より当家に伝へて維盛までは嫡々九代に相当たる
- `もし運命開けて都へ上らせ給ふ事も候はば六代に賜ぶべし
- `と申すべし
- `とぞ宣ひける
- `武里涙に咽び俯して暫しはとかうの御返事にも及ばず
- `ややあつて起き上がり涙を押さへて
- `何処までも御供申し最後の御有様を見参らせて後こそ八島へも参らめ
- `と申しければ
- `さらば
- `とて召し具せらる
- `善知識の為にとて滝口入道をも具せられけり
- `高野をば山伏修行者のやうに出で立つて同じき国の内山東へこそ出でられけれ
- `千里浜の北岩代王子の御前にて狩装束なる者七八騎がほど行き逢ひ奉る
- `只今も失はんずるにこそ
- `腹を切らん
- `と各腰の刀に手を懸け給ふ処にさはなくして馬より下り近づき奉りたりけれども少しも過つべき気色もなく深う畏つて通りぬ
- `この辺にも見知り参らせたる者のあるにこそ
- `誰なるらん
- `と恥づかしくていとど足早に差し給ふほどにこれは当国の住人湯浅権守宗重が子湯浅七郎兵衛宗光といふ者なり
- `郎等共
- `これはいかに
- `と問ひければ
- `あれこそ小松大臣殿の御嫡子三位中将殿よ
- `抑も八島をば何としてかは遁れさせ給ひたりけるやらん
- `はや御様替へさせ給ひたり
- `与三兵衛石童丸も同く出家して御供にぞ参りける
- `近づき参つて御見参にも入りたかりつれども御憚りもぞ思し召すとて通りぬ
- `あな哀れなりける御事かな
- `とて袖を顔に押し当ててさめざめと泣きければ郎等共も皆袖をぞ濡らしける