一一一五五熊野参詣
原文
- `漸う差し給ふほどに岩田川にも着き給ひぬ
- `この川の流れを一度も渡る者は悪業煩悩無始罪障も消ゆなるものをと頼もしうこそ思はれけれ
- `本宮証誠殿の御前にて静かに法施参らせて御山の様を拝み給ふに心も詞も及ばれず
- `大悲擁護の霞は熊野山に棚引き霊験無双の神明は音無川に跡を垂る
- `一乗修行の岸には感応の月隈もなく六根懺悔の庭に妄想の露も結ばず
- `いづれもいづれも頼もしからずといふ事なし
- `夜更けて人静まつて啓白せられけるは父の大臣のこの御前にて
- `命を召して後世を助けさせ給へ
- `と祈り申されせ給ひし御事までも思し召し出でて哀れなり
- `中にも当山権現は本地阿弥陀如来にておはします
- `摂取不捨の本願過たず浄土へ導き給へ
- `と申されける
- `中にも
- `故郷に留め置きし妻子安穏に
- `と祈られけるこそ悲しけれ
- `憂き世を厭ひまことの道に入り給へども妄執はなほ尽きずと覚えて哀れなりし事共なり
- `明けければ本宮より舟に乗り新宮へぞ参られける
- `神倉を拝み給ふに巌松高く聳へて嵐妄想の夢を破り流水清く流れて浪塵埃の垢を濯ぐらんとも覚えたり
- `明日の社を伏し拝み佐野松原差し過ぎて那智御山に参り給ふ
- `三重に漲り落つる滝の水数千丈まで攀ぢ上り観音の霊像は岩の上に現れて補陀落山とも云ひつべし
- `霞の底には法華読誦の声絶えず霊鷲山とも申しつべし
- `抑も権現当山に跡を垂れさせましましてより以来我が朝の貴賤上下歩を運び首を傾け掌を合はせて利生に預からずといふ事なし
- `僧侶されば甍を並べて道俗袖を連ねたり
- `寛和の夏の比花山法皇十善の帝位をすべらせ給ひて九品の浄刹を行はせ給ひけん御庵室の旧跡には昔を忍ぶと思しくて老木の桜ぞ咲きにける
- `幾らも並み居たる那智籠りの僧共の中にこの三位中将を都にてよくよく見知り参らせたると思しくて同行に語りけるは
- `これなる修行者を誰やらんと思ひ居たれば小松大臣殿の御嫡子三位中将殿にてましますなり
- `あの殿の未だ四位少将なりし安元の春の比院御所法住寺殿にて五十の御賀のありしに父小松殿は内大臣左大将にておはします
- `伯父宗盛卿は中納言右大将にて階下に着座せられき
- `その外三位中将知盛頭中将重衡以下一門の殿上人今日を晴れと時めき合うて垣代に立ち給ひし中よりこの三位中将殿桜の花を挿頭して青海波を舞ひて出でられたりしかば露に媚びたる花の御姿風に翻る舞の袖地を照らし天も輝くばかりなり
- `女院より関白殿を御使にて御衣を懸けられしかば父の大臣座を立ちこれを賜はつて右の肩に懸け院を拝し奉り給ふ
- `面目類少なうぞ見えし
- `かたへの公卿殿上人もいかばかり羨しう思はれけん
- `内裏の女房達の中には
- `深山木の中の楊梅とこそ覚ゆれ
- `など云はれ給ひし人ぞかし
- `只今大臣の大将待ちかけ給へる人とこそ見奉りしに今日はかく窶れ給へる御有様予ては思ひ寄らざりしか
- `移れば変はる世の習ひとはいひながら哀れなりける御事かな
- `とて袖を顔に押し当てさめざめと泣きければ那智籠りの僧共も皆裏衣の袖をぞ濡らしける