一二一五六維盛入水
原文
- `三御山の参詣事故なう遂げ給ひしかば浜宮と申し奉る王子の御前より一葉の舟に棹ささせ万里の蒼海に浮かび給ふ
- `遥かの沖に山成島といふ所あり
- `中将それに舟を漕ぎ寄せさせ岸に上り大きなる松の木を削りて名跡を書き付けらる
- `祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海
- `親父内大臣左大将重盛公法名浄蓮
- `三位中将維盛法名浄円年二十七歳寿永三年三月二十八日那智の沖にて入水す
- `と書き付けてまた舟に乗り奥へぞ漕ぎ出で給ひける
- `思ひ切りぬる道なれども今はの時にもなりぬればさすが心細う悲しからずといふ事なし
- `比は三月二十八日の事なれば海路遥かに霞み渡り哀れを催す類かな
- `ただ大方の春だにも暮れゆく空は物憂きに況やこれは今を最後只今限りの事なればさこそは心細かりけめ
- `沖の釣舟の波に消え入るやうに覚ゆるがさすが沈みも果てぬを見給ふにつけても御身の上とや思はれけん
- `己が一行引き連れて今はと帰る雁金の越路を指して鳴き行くも故郷へ言伝てせまほしく蘇武が胡国の恨みまで思ひ残せる隈もなし
- `こはされば何事ぞや
- `と来し方行く末の事共を思ひ続けて給ふにも
- `なほ妄執の尽きぬにこそ
- `と思ひ返して西に向かつて手を合はせ念仏し給ふ心の内にも
- `都には今日を最後只今限りとはいかで知るべきなれば風の便りの音信も今や今とこそ待たんずらめ
- `と思ひければ合掌を乱り聖に向かつて宣ひけるは
- `哀れ人の身に妻子といふものを持つまじかりけるものかな
- `今生にて物を思はするのみならず後世菩提の妨げとなりぬる事こそ口惜しけれ
- `かやうの事を心中に残し置けばあまりに罪深かかんなる間懺悔するなり
- `とぞ宣ひける
- `聖も哀れに思ひけれども我さへ心弱くては叶はじとや思ひけん涙を押し拭ひさらぬ体にもてなして
- `高きも賤しきも恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へばまことにさこそは思し召され候ふらめ
- `中にも夫妻は
- `一夜の枕を並ぶるも五百生の宿縁
- `と承れば前世の契り浅からず
- `生者必滅会者定離は憂き世の習ひにて候ふなり
- `末の露本の雫の例しあればたとひ遅速の不同ありといふとも後れ先立つ御別れつひに無くしてもや候ふべき
- `かの驪山宮の秋の夕べの契りもつひには心を砕く端となり甘泉殿の生前の恩も終りなきにしもあらず
- `松子梅生生涯の恨みあり等覚十地なほ生死の掟に従ふ
- `たとひ君長生の楽しみに誇り給ふともこの恨みはつひに無くしてもや候ふべき
- `たとひまた百年の齢を持たせ給ふともこの御別れはただ同じ事と思し召さるべし
- `第六天魔王といふ外道は欲界の六天を皆我が物と領じて中にもこの界の衆生の生死に離るる事を惜しみ或いは妻となり或いは夫となつてこれを妨げんとするに三世の諸仏は一切衆生を一子の如く思し召してかの極楽浄土の不退の土に勧め入れんとし給ふに妻子といふ者が無始昿劫より以来生死に輪廻する絆によつて仏は重う戒め給ふ
- `さればとて心弱う思し召すべからず
- `源氏の先祖伊予入道頼義は勅命によつて奥州の夷貞任宗任を攻め給ひし時十二年が間に人の首を斬る事一万六千その外山野の獣江河の鱗その命を絶つ事幾千万といふ数を知らず
- `されども終焉の時一念の菩提心を発ししによつて往生の素懐を遂げたりとこそ承れ
- `就中御出家の功徳莫大なれば前世の罪障は皆滅び給ひぬらん
- `たとひ人あつて七宝塔を建つる事高さ三十三天に至るといふとも一日の出家の功徳には及ぶべからず
- `たとひ百千歳の間百羅漢を供養したる功徳も一日の出家の功徳には及ばず
- `とこそ説かれたり
- `罪深かりし頼義も心猛きが故に往生を遂ぐ
- `御罪業もましまさざらんになどか浄土へ参り給はで候ふべき
- `その上当山権現は本地阿弥陀如来にてましませば始め無三悪趣の願より終り得三法忍の願に至るまで一々の誓願衆生化度の願ならずといふ事なし
- `中にも第十八の願には
- `説我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚
- `と説かれたれば一念十念の頼みあり
- `ただこの教へを深く信じて努々疑ひをなすべからず
- `無二の懇念を致してもしは一遍ももしは十遍も唱へ給ふものならば弥陀如来六十万億那由多恒河沙の御身を縮め丈六八尺の御形にて観音勢至無数の聖衆化仏菩薩百重千重に囲繞し伎楽詠して只今極楽の東門を出でて来迎し給はんずれば御身こそ蒼海の底に沈むと思し召さるとも紫雲の上に登り給ふべし
- `成仏得脱して悟りを開き給ひなば娑婆の故郷に立ち帰つて妻子を導き給はん事
- `還来穢国度
- `人天少しも過ち給ふべからず
- `鐘打ち鳴らし念仏を勧め奉れば中将
- `然るべき善知識
- `と思し召し忽ちに妄念を翻し西に向かつて手を合はせ高声に念仏百返ばかり唱へ給ひて
- `南無
- `と唱ふる声と共に海へぞ飛び入り給ひける
- `与三兵衛石童丸も同じう御名を唱へつつ続いて海にぞ沈みける