原文
- `さるほどに小松三位中将維盛卿の北方は風の便りの音信も絶えて久しくなりければ
- `月に一度などは音信るるものを
- `と思ひて待たれけれども春過ぎ夏にもなりぬ
- `今三位中将は八島にはおはせぬものを
- `など申す者ありと聞き給ひて北方あまりの覚束なさにとかうして使を一人為立てて八島へ奉られたりけれども急ぎ立ちも帰らず
- `北方
- `さていかにや
- `と問ひ給へば
- `過ぎ候ひし三月十五日の暁与三兵衛重景石童丸ばかりを御供にて讃岐の八島の館をば御出あつて高野の御山へ参らせ給ひて御出家せさせおはしましその後熊野へ参らせ給ひて那智の沖にて御身を投げてましまし候ふ
- `とこそ御供申したりし舎人武里は申し候ひつれ
- `と申しければ北方
- `さればこそ怪しと思ひたれば
- `とて引き被いて臥し給ふ
- `若君姫君も声々に喚き叫び給ひけり
- `若君の乳母の女房涙を押さへて申しけるは
- `これは今更嘆かせ給ふべからず
- `本三位中将殿のやうに生きながら囚はれて上らせ給ひて候はばいかに心憂う候ふべきにこれは高野の御山へ参らせ給ひて御出家せさせおはしましその後熊野へ参らせ給ひて後世の御事よくよく申させ給ひて那智の沖とかやにて御身を投げてましまし候ふらん事こそ嘆きの中の御喜びにて候へ
- `今はいかにもして御様を変へ仏の御名を唱へさせ給ひて亡き人の御菩提を弔ひ参らさせ給へかし
- `と申しければ北方やがて様を変へ形の如くの仏事を営み給ふぞ哀れなる
- `鎌倉殿この由を伝へ聞き給ひて宣ひけるは
- `哀れ隔てなううち向かつておはしたらばさりとも命ばかりは助け奉りてまし
- `その故は池禅尼の使として頼朝流罪に宥められける事は偏にかの内府の芳恩なり
- `その名残にておはすれば子息達をも全くおろそかに思ひ奉らず
- `況してさやうに出家などせられなん上は子細にや及ぶべき
- `とぞ宣ひける
- `さるほどに平家讃岐八島へ渡り給ひて後は
- `東国より新手の軍兵数万騎都に着いて攻め下る
- `とも聞ゆ
- `また
- `鎮西より臼杵戸次松浦党同心して押し渡る
- `とも聞えけり
- `かれを聞きこれを聞くにもただ耳を驚かし肝魂を消すより外の事ぞなき
- `女房達には女院北政所二位殿以下の女房達寄り合ひて
- `我が方様にいかなる憂き事をか聞かんずらん
- `いかなる憂き目をば見んずらん
- `と嘆き合ひ悲しび合はれけり
- `今度一谷にて一門の公卿殿上人大略討たれ宗徒の侍共数を尽くいて滅びにしかば今は力尽き果てて阿波民部大夫重能が兄弟四国の者共語らつて
- `さりとも
- `と申しけるをぞ高き山深き海共頼み給ひける
- `さるほどに荻の上風も漸う身に沁み萩の下露もいよいよ繁く恨むる虫の声々稲葉うちそよぎ木の葉且つ散る気色物思はざらんだに深けゆく秋の旅の空は悲しかるべし
- `況して平家の人々の心の内推し量られて哀れなり
- `昔は九重の上にて春の花を翫び今は八島浦にして秋の月に悲しぶ
- `凡そ分明けき月を詠じても都の今夜いかならんと思ひ遣り涙を流し心を澄ましてぞ明かし暮らさせ給ひける
- `左馬頭行盛
- `君すめば是も雲井の月なれどなほこひしきは都なりけり
- `さるほどに同じき九月十二日大将軍三河守範頼平家追討の為にとて西国へ発向す
- `相伴ふ人々足利蔵人義兼北条小四郎義時斎院次官親義侍大将には土肥次郎実平子息弥太郎遠平三浦介義澄子息平六義村畠山庄司次郎重忠同長野三郎重清佐原十郎義連稲毛三郎重成佐々木三郎盛綱土屋三郎宗遠天野藤内遠景比気藤内朝宗同藤四郎義員八田四郎武者朝家安西三郎秋益大胡三郎実秀中条藤次家長一品房章玄土佐房正俊これらを先として都合その勢三万余騎都を立つて播磨の室にぞ着きにける
- `平家の方の大将軍には小松新三位中将資盛同少将有盛丹後侍従忠房侍大将には越中次郎兵衛盛嗣上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清を先として五百余艘の兵船に乗り連れて漕ぎ来たり備前の児島に着くと聞えしかば源氏やがて室を立てこれも備前国西河尻藤戸に陣をぞ取つたりける
- `源氏
- `安からぬ事なり
- `いかがせん
- `といふ処に近江国の住人佐々木三郎守綱二十五日の夜に入りて浦の男を一人語らひ直垂小袖大口白鞘巻などを取らせ賺し仰せて
- `この海に馬にて渡しぬべき所やある
- `と問ひければ男申しけるは
- `浦の者共幾らも候へども案内知つたるは稀に候ふ
- `知らぬ者こそ多う候へ
- `この男は案内よく知つて候ふ
- `たとへば川の瀬のやうなる所の候ふが月頭には東に候ふ月の末には西に候ふ
- `件の瀬のあはひ海の面十町ばかりも候ふらん
- `これは容易う御馬などにて渡させ候ひなんず
- `と申しければ佐々木
- `いざさらば渡いてみん
- `とてかの男と二人紛れ出でて裸になり件の川の瀬のやうなる所を渡つて見るにげにもいたう深うはなかりけり
- `膝腰肩に立つ所もあり鬢の濡るる所もあり
- `深き所を泳いで浅き所に泳ぎ着く
- `男申しけるは
- `これより南は北よりは遥かに浅う候ふ
- `敵矢先を揃へて待ち参らせ候ふ処に裸にてはいかにも叶はせ給ひ候ふまじ
- `ただこれより帰らせ給へ
- `と云ひければ佐々木
- `げにも
- `とて帰りけるが
- `下臈は何処ともなき者にてまた人にも語らはれて案内もぞ教へんずらん
- `我ばかりこそ知らめ
- `とてかの男を刺し殺し首掻き切つてぞ捨ててける
- `明くる二十六日の辰の刻ばかりまた平家の方の逸り男の兵共小舟に乗つて漕ぎ出だし扇を挙げて
- `此処を渡せや
- `とぞ招いたる
- `ここに近江国の住人佐々木三郎守綱予て案内は知つたり
- `滋目結の直垂に緋威の鎧着て連銭葦毛なる馬に金覆輪鞍置いて乗つたりける
- `家子郎等共に七騎うち入つて渡す
- `大将軍三河守範頼これを見給ひて
- `あれ制せよ
- `留めよ
- `と宣へば土肥次郎実平鞭鐙を合はせて追つ付き
- `いかに佐々木殿は物の憑いて狂ひ給ふか
- `大将軍よりの御許されもなきに留まり給へ
- `と云ひけれども佐々木耳にも聞き入れずうち入れて渡しければ土肥次郎も制しかねてやがて続いてうち入れたり
- `馬の草分鞅尽くし太腹に立つ所もあり鞍壺越す所もあり深き所を泳がせて浅き所にうち上がる