一一六〇逆櫓
原文
- `元歴二年正月十日九郎大夫判官義経院参して大蔵卿泰経朝臣を以て奏聞せられけるは
- `平家は既に神明にも放たれ奉り君にも捨てられ参らせて帝都を出でて波の上に漂ふ落人となれり
- `然るをこの三箇年が間攻め落さずして多くの国々を塞げらるる事口惜し候へば今度義経に於いては鬼界高麗天竺震旦までも平家を攻め落さざらん間は王城へ帰り入るべからざる
- `由奏聞せられたりければ法皇大きに御感あつて
- `相構へて夜を日に継いで勝負を決すべし
- `とぞ仰せ下さる
- `判官宿所に帰りて東国の大名小名に向かつて宣ひけるは
- `今度義経院宣を承り鎌倉殿の御代官として平家を攻め滅ぼすべし
- `陸は駒の足の通はんを限り海は櫓櫂の立たん所まで攻め行くべし
- `それに少しも子細を存ぜん人々はこれより疾う疾う鎌倉へ下るべし
- `とぞ宣ひける
- `さるほどに八島には隙行く駒の足速くして正月も立ち二月にもなりぬ
- `春の草暮れて秋の風に驚き秋の風止んでまた春の草にもなれり
- `送り迎へて既に三年になりにけり
- `平家讃岐の八島へ渡り給ひて後も東国より新手の軍兵数万騎都に着きて攻め下る
- `とも聞ゆ
- `また
- `鎮西より臼杵戸次松浦党同心して押し渡る
- `とも聞えけり
- `かれを聞きこれを聞くにもただ耳を驚かし肝魂を消すより外の事ぞなき
- `女院北政所二位殿以下の女房達差し集ひ
- `あはれ我が方様にいかなる憂き事をか聞かんずらん
- `いかなる憂き目を見んずらん
- `と嘆き合ひ悲しみ合はれけり
- `中にも新中納言知盛卿の宣ひけるは
- `東国北国の凶徒等も随分重恩を蒙つたりしかども恩を忘れ契りを変じて頼朝義仲等に従ひき
- `西国とてもさこそはあらんずらめと思ひしかばただ都の内にていかにも成らせ給へとさしも申しつるものを
- `我が身一つの事ならねば心弱う憧れ出でて今日はかかる憂き目を見る口惜しさよ
- `とぞ宣ひける
- `まことに理と覚えて哀れなり
- `さるほどに二月三日九郎大夫判官義経都を立つて摂津国渡辺にて舟揃へし八島へ既に寄せんとす
- `兄の三河守神崎より兵船を揃へて山陽道へ赴かんとす
- `同じき十日伊勢石清水へ官幣使を立てらる
- `主上並びに三種神器事故なう都へ還し入れ奉るべき
- `由神祇官の官人諸々の社司本宮本社にて祈誓申すべき旨仰せ下さる
- `同じき十六日渡辺福島両所にて揃へたりける舟共の纜既に解かんとす
- `折節北風木を折つて烈しう吹きたりければ舟共皆うち損ぜられて出だすに及ばず
- `修理の為にその日は留りぬ
- `渡辺には東国の大名小名寄り合ひ給ひて
- `抑も我等船軍のやうは未だ調練せず
- `いかがせん
- `と評定す
- `梶原進み出でて
- `今日の合戦には舟に逆櫓を立て候はばや
- `と申す
- `判官
- `逆櫓とは何ぞ
- `梶原
- `馬は駆けんと思へば駆け引かんと思へば引き弓手へも馬手へも容易う候ふ
- `舟はさやうの時きつと押し廻すが大事のものにて候へば艫舳に櫓を立て違へ脇楫を入れて何方へも安う押し廻すやうにし候はばや
- `と申しければ判官
- `まづ門出の悪しさよ
- `軍といふは一引きも引かじと思ふだにあはひ悪しければ引くは常の習ひなり
- `況してさやうに逃げ設けせんになじかはよかるべき
- `殿原の舟には逆櫓をも返様櫓をも百丁千丁も立て給へ
- `義経はただ元の櫓で候はん
- `と宣ひける
- `梶原重ねて
- `よき大将軍と申すは駆くべき所をば駆け引くべき所を引き身を全うして敵を滅ぼすを以てこそよき大将軍とはしたる候ふ
- `さやうに偏趣なるをば猪武者とてよきにはせず
- `とこそ申しければ判官
- `猪鹿は知らず
- `敵はただ平攻めに攻めて勝ちたるぞ心地はよき
- `と宣へば東国の大名小名梶原に恐れて高くは笑はねども目引き鼻引きささめき合へり
- `その日判官と梶原と既に同士軍せんとす
- `されども軍はなかりけり
- `判官
- `舟共の修理して新しうなりたるに各一種一瓶して祝ひ給へや
- `とてとかく営む体にもてなして舟に兵糧米積み物具入れ馬共立てさせ
- `舟疾う疾う仕れ
- `と宣へば水主梶取共
- `これは順風にては候へども普通にては過ぎて候ふ
- `沖はさこそ吹いて候ふらん
- `と申しければ判官大きに怒つて
- `沖に出で浮かうだる時風強ければとて留まるべきか
- `野山の末にて死に海川に溺れて失するも皆これ前世の宿業なり
- `向かひ風に渡らんと云はばこそ僻事ならめ順風なるが少し強ければとてこれほどの御大事に舟仕らじとはいかでか申ぞ
- `舟疾う疾う仕れ
- `仕らずばしやつ原一々に射殺せ者共
- `と宣へば
- `承り候ふ
- `とて奥州佐藤三郎兵衛嗣信同四郎兵衛忠信江田源三熊井太郎武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵共片手矢矧げて
- `御諚であるぞ舟疾う疾う仕れ
- `仕らずばしやつ原一々に射殺さん
- `とて馳せ廻る間水主梶取共
- `これにて射殺されんも同じ事風強くは沖にて馳せ死ねや者共
- `とて二万余艘が舟の内よりもただ五艘出でてぞ走りける
- `五艘の舟と申すはまづ判官の舟田代冠者の舟後藤兵衛父子金子兄弟淀江内忠俊とて舟奉行の乗つたる舟なりけり
- `残りの舟は梶原に恐るるか風に恐るるかして出でざりけり
- `判官
- `人の出でねばとて留まるべきかただの時は敵も恐れて用心すらん
- `かかる大風大波には思ひも寄らぬ所へ寄せてこそ思ふ敵をば討たんずれ
- `とぞ宣ひける
- `各の舟に篝など燃やいそ
- `義経が舟を本舟として艫舳の篝を守れや
- `火数多う見えば敵も用心してんず
- `とて走るほどにその間三日に渡る所をただ三時ばかりにぞ走りける
- `二月十六日の丑の刻に摂津国渡辺福島を出でて明くる卯の刻には阿波の地へこそ吹き着いたれ