四一六三扇的
原文
- `さるほどに阿波讃岐に平家を背いて源氏を待ちける者共彼処の峰此処の洞より十四五騎二十騎うち連れうち連れ馳せ来たるほどに判官ほどなく三百余騎になり給ひぬ
- `今日は日暮れぬ勝負を決すべからず
- `とて引き退く処にここに沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘汀へ向かひて漕ぎ寄せさせ渚より七八段ばかりにもなりしかば舟を横様に成す
- `あれはいかにと見るほどに舟の内より年の齢十八九ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが皆紅の扇の日出だいたるを舟の船枻に挟み立て陸へ向かつてぞ招きける
- `判官後藤兵衛実基を召して
- `あれはいかに
- `と宣へば
- `射よ
- `とにこそ候ふめれ
- `但し大将軍の矢面に進んで傾城を御覧ぜられん処を手練れに狙うて射落せとの謀と存じ候へ
- `さりながらも扇をば射させらるべうもや候ふらん
- `と申しければ判官
- `御方に射つべき仁は誰かある
- `と宣へば
- `上手共多う候ふ中に下野国の住人那須太郎資高が子に与一宗高こそ小兵では候へども手は利いて候ふ
- `と申す
- `判官
- `証拠いかに
- `と宣へば
- `さん候ふ翔鳥などを争うて三つに二つは必ず射落し候ふ
- `と申しければ判官
- `さらば与一召せ
- `とて召されけり
- `与一その比は未だ二十ばかりの男なり
- `褐に赤地の錦を以て壬衽彩へたる直垂に萌黄威の鎧着て足白の太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ薄切斑に鷹の羽割り合はせて矧いだりける觘目の鏑をぞ差し添へたる
- `滋籐の弓脇に挟み甲をば脱ぎ高紐に懸け判官の御前に畏る
- `判官
- `いかに宗高あの扇の真中射て敵に見物せさせよかし
- `と宣へば与一
- `仕つとも存じ候はず
- `これを射損ずるほどならば長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし
- `一定仕らうずる仁に仰せ付けらるべうもや候ふらん
- `と申しければ判官大きに怒つて
- `今度鎌倉を立つて西国へ赴かんずる者共は皆義経が命を背くべからず
- `それに少しも子細を存ぜん殿原はこれより疾う疾う鎌倉へ帰らるべし
- `とぞ宣ひける
- `与一
- `重ねて辞せば悪しかりなん
- `とや思ひけん
- `さ候はば外れんをば知り候ふまじ御諚で候へば仕つてこそ見候はめ
- `とて御前を罷り立ち黒き馬の太う逞しきに丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける
- `弓取り直し手綱掻い繰つて汀へ向いてぞ歩ませける
- `御方の兵共与一が後ろを遥かに見送りて
- `一定この若者仕つつべう存じ候ふ
- `と申しければ判官世にも頼もしげにぞ見給ひける
- `矢比少し遠かりければ海の面一段ばかりうち入れたりけれどもなほ扇のあはひは七段ばかりもあるらんとぞ見えし
- `比は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに折節北風烈しくて磯打つ波も高かりけり
- `舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば扇も串に定まらず閃いたり
- `沖には平家舟を一面に並べて見物す
- `陸には源氏轡を並べてこれを見る
- `いづれもいづれも晴れならずといふ事なし
- `与一目を塞いで
- `南無八幡大菩薩別しては我国の神明日光権現宇都宮那須湯泉大明神願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ
- `射損ずるほどならば弓切り折り自害して人に二度面を向くべからず
- `今一度本国へ迎へんと思し召さばこの矢外させ給ふな
- `と心の内に祈念して目を見開いたれば風少し吹き弱つて扇も射よげにぞなりにけれ
- `与一鏑を取つて番ひよつ引いてひやうと放つ
- `小兵といふ条十二束三伏弓は強し鏑は浦響くほどに長鳴りして過たず扇の要際一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる
- `鏑は海に入りければ扇は空へぞ揚がりける
- `春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける
- `皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを沖には平家舷を叩いて感じたり
- `陸には源氏箙を叩いて響めきけり