五一六四弓流
原文
- `あまり感に堪へずと思しくて平家の方より年の齢五十ばかりなる男の黒革威の鎧着たるが白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひ締めたり
- `伊勢三郎義盛与一が後ろに歩ませ寄せて
- `御諚であるぞこれをもまた仕れ
- `と云ひければ与一今度は中差取つて番ひよつ引いて舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す
- `ああ射たり
- `と云ふ人もあり嫌々
- `情なし
- `と云ふ者も多かりけり
- `平家の方には音もせず
- `源氏の方にはまた箙を叩いて響めきけり
- `平家これを本意なしとや思ひけん弓持つて一人楯突いて一人長刀持つて一人武者三人渚に上がり
- `源氏此処を寄せよや
- `とぞ招きける
- `判官
- `安からぬ事なり
- `馬強ならん若党共馳せ寄つて蹴散らせ
- `と宣へば武蔵国の住人美尾屋四郎同藤七同十郎上野国の住人丹生四郎信濃国の住人木曾中次五騎連れて喚いて駆く
- `まづ楯の陰より塗箆に黒保呂矧いだる大の矢を持つて真先に進んだる美尾屋十郎が馬の左の鞅尽くしに弭の隠るるほどにぞ射籠うだる
- `屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば主は弓手の脚を越え馬手の方へ下り立ちてやがて太刀をぞ抜いたりける
- `また楯の陰より長刀持つたる男一人うち振つて懸かりければ美尾屋十郎小太刀大長刀に叶はじとや思ひけん掻き伏いて逃げければやがて続いて追つ駆けたり
- `長刀にて薙がんとするかと見るところにさはなくして長刀をば弓手の脇に掻い挟み馬手の手を差し延べて美尾屋十郎が甲の錣を掴まうとす
- `掴まれじと逃ぐる
- `三度掴み外いて四度の度にむずと掴む
- `暫しぞ堪つて見えし
- `鉢付けの板よりふつと引き切つてぞ逃げたりける
- `残り四騎は馬を惜しうで駆けず見物してぞ居たりける
- `美尾屋十郎は御方の馬の陰へ逃げ入つて息継ぎ居たり
- `敵は追うて来ず白柄の長刀杖につき甲の錣を高く差し上げ大音声を揚げて
- `遠からん者は音にも聞け
- `近からん者は目にも見給へ
- `これこそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ
- `と名乗り捨ててぞ退きにける
- `平家これに少し心地を直いて
- `悪七兵衛討たすな者共
- `景清討たすな続けや
- `とて二百余人渚に上がり楯を雌鳥羽に築き並べて
- `源氏此処を寄せや
- `とぞ招いたる
- `判官
- `安からぬ事なり
- `とて伊勢三郎義盛奥州佐藤四郎兵衛忠信を前に立て後藤兵衛父子金子兄弟弓手馬手に立て田代冠者を後ろになして判官八十余騎喚いて先を駆け給へば平家の方には馬に乗つたる勢は少なし大略徒武者なりければ馬に当てられじとや思ひけん引き退き皆舟にぞ乗りにける
- `楯は算を散らしたるやうに散々に懸けなされぬ
- `源氏勝ちに乗つて馬の太腹浸かるほどにうち入れうち入れ攻め戦ふ
- `舟の内より熊手を持つて判官の甲の錣にからりからりと二三度しけれども御方の兵共太刀長刀の鋒にて打ち払い打ち払い攻め戦ひけるが判官いかがはし給ひたりけん弓を懸け落されぬ
- `俯して鞭を持つて掻き寄せ取らん取らんとし給へば御方の兵共
- `ただ捨てさせ給へ捨てさせ給へ
- `と云ひけれどもつひに取つて笑うてぞ帰られける
- `大人共は皆爪弾きをして
- `たとひ千疋万疋に代へさせ給ふべき御たらしなりと申すともいかでか御命には替へさせ給ふべきか
- `と申しければ判官
- `弓の惜しさに取らばこそ
- `義経が弓といはば二人しても張りもしは三人しても張り伯父為朝が弓のやうならば態も落して取らすべし
- `尫弱たる弓を敵の取り持つて
- `これこそ源氏の大将軍九郎義経が弓よ
- `など嘲哢せられんが口惜しさに命に替へて取つたるぞかし
- `と宣へば皆またこれをぞ感じける
- `一日戦ひ暮らし夜に入りければ平家の舟は沖に浮かび源氏は陸にうち上がつて牟礼高松の中なる野山に陣をぞ取つたりける
- `源氏の兵共はこの三日が間は寝ざりけり
- `一昨日渡辺福島を出で大波に揺られて微睡まず昨日阿波国勝浦に着いて軍し終夜中山越え今日また一日戦ひ暮らしたりければ人も馬も皆疲れ果てて或いは甲を枕にし或いは鎧の袖箙など枕として前後も知らずぞ臥しにける
- `されどもその中に判官と伊勢三郎は寝ざりけり
- `判官は高き所にうち上がつて敵や寄すると遠見し給へば伊勢三郎は窪き所に隠れ居て敵寄せばまづ馬の太腹射んとて待ちかけたり
- `平家の方には能登殿を大将軍としてその夜夜討に寄すべかりしを越中次郎兵衛盛嗣と海老次郎が先陣を争ふほどにその夜も空しく明けにけり
- `寄せたれば源氏なじかはあらまし
- `寄せざりけるこそせめての運の極めなれ