九一六八遠矢
原文
- `さるほどに源平両方陣を合はせて鬨をどつと作る
- `上は梵天までも聞え下は堅牢地神も驚き給ふらんとぞ覚えたる
- `中にも新中納言知盛卿舟の屋形に進み出で大音声を揚げて
- `天竺震旦にも日本我が朝にも並びなき名将勇士といへども運命尽きぬれば力及ばず
- `されども名こそ惜しけれ
- `命をいつの為にか惜しむべき
- `軍は今日の限りぞ
- `少しも退く心なくして軍ようせよ者共
- `ただこれのみぞ思ふ事よ
- `と宣へば飛騨三郎左衛門景経御前に候ひけるが
- `これ承れ侍共
- `とぞ下知しける
- `上総悪七兵衛進み出でて
- `それ坂東武者は馬の上にてこそ口は利き候へども舟軍にはいつ調練し候ふべき
- `譬へば魚の木に上つたるでこそ候はんずらめ
- `一々に取つて海に漬けなんものを
- `とぞ申しける
- `越中次郎兵衛進み出で
- `同じうは大将軍源九郎と組み合へ
- `九郎は背の小さき男の色白かんなるが向歯の少し差し顕れて殊に著るかんなるぞ
- `但し鎧と直垂を常に着替ふなればきつと見分け難かんなり
- `とぞ申しける
- `悪七兵衛重ねて
- `何条その小冠者
- `心こそ猛くとも何ほどの事かあるべき
- `しや片脇に挟んで海へ入れなんものを
- `とぞ申したる
- `その後新中納言大臣殿の御前にておはして申されけるは
- `御方の兵共今日はよう見え候ふ
- `但阿波民部重能ばかりこそ心変はりしたると覚え候へ頭を刎ね候はばや
- `と申されければ大臣殿
- `さしも奉公の者であるに見えたる事もなくしていかでか頭をば刎ねらるべき
- `重能召せ
- `とて召されけり
- `阿波民部重能は木蘭地の直垂に洗皮の鎧着て御前に畏つてぞ候ひける
- `大臣殿
- `いかに重能
- `さん候ふ
- `四国の者共に軍ようせよと下知せよ
- `今日は悪う見ゆるは臆したるな
- `と宣へば
- `何条臆し候ふべき
- `とて御前を罷り立つ
- `新中納言
- `あつぱれ彼奴が首打ち落さばや
- `と太刀の柄砕けよと握つて大臣殿の方を頻りに見参らせ給へども御許されなければ力及び給はず
- `さるほどに平家は千余艘を三手に作る
- `まづ山賀兵藤次秀遠五百余艘で先陣に漕ぎ向かふ
- `松浦党三百余艘で二陣に続く
- `君達二百余艘で三陣に続き給ひけり
- `中にも山賀兵藤次秀遠は九国一の強弓精兵なりければ我ほどこそ無けれども普通様の精兵共五百人選つて舟々の艫舳に立て肩を一面に並べて五百の矢を一度に放つ
- `源氏の方にも三千余艘の舟なりければ勢の数さこそ多かりけめども彼処此処より射けるほどに何処に精兵ありとも見えざりけり
- `中にも大将軍源九郎義経は真先に進んで戦ひけるが楯も鎧も堪へずして散々に射白まさる
- `平家御方勝ちぬ
- `とて頻りに攻鼓を打つて悦びの鬨をどつとぞ作りける
- `源氏の方には和田小太郎義盛舟には乗らず馬にうち乗り馬の太腹浸かるほどにうち入れ鐙踏み反らし平家の勢の中を差し詰め引き詰め散々に射る
- `三町が内外の者をば外さず強う射けり
- `中にも殊に遠う射たると思しき矢を
- `その矢給はらん
- `とぞ招きたる
- `新中納言知盛卿この矢を抜かせて見給へば白箆に鶴の本白鴻の羽割り合はせて矧いだる矢の十三束三伏ありけるに沓巻より一束ばかり置いて
- `和田小太郎平義盛
- `と漆にてぞ書き付けたる
- `平家の方にも精兵多しといへどもさすが遠矢射る仁や無かりけんややあつて伊予国の住人仁井紀四郎親清賜はつてこれを射返す
- `これは三町余りをつと射渡して和田が後ろ一段ばかりに控へたる三浦石左近太郎が弓手の肱に強かにこそ立つたりけれ
- `三浦の人共寄り合ひて
- `あな憎や和田小太郎が我ほど精兵なしと心得て恥かきぬる可笑しさよ
- `とぞ笑ひける
- `義盛
- `安からぬ事なり
- `とて今度は小舟に乗つて漕ぎ出だし平家の勢の中を差し詰め引き詰め散々に射ければ者共多く手負ひ射殺さる
- `ややあつてまた沖の方より判官の乗り給ひたる舟に白箆の大矢を一つ射立て
- `その矢賜はらん
- `と招きけり
- `判官後藤兵衛実基を召してこの矢抜かせて見給へば白箆に山鳥の尾を以て矧いだる矢の十四束三伏ありけるに沓巻より一束ばかり置いて
- `伊予国の住人仁井紀四郎親清
- `と漆にてぞ書き付けたる
- `判官
- `御方にこの矢射つべき仁は誰かある
- `と宣へば
- `上手多う候ふ中に甲斐源氏に浅利与一殿こそ精兵の手利きにて候へ
- `と申しければ判官
- `さらば与一召せ
- `とて召されけり
- `浅利与一出で来たり
- `判官
- `この矢只今沖より射て候ふが
- `和田のやうに賜はらん
- `と招き候ふ
- `御辺遊ばされ給ひなんや
- `と宣へば
- `賜はつて見候はん
- `とて取つて爪縒つて
- `これは箆が少し弱う候ふ
- `矢束も少し短う候へば同じうは義盛が具足にて仕り候はん
- `とて塗箆に黒保呂矧いだる矢の我が大手に押し握つて十五束三伏ありけるに塗籠籐の弓の九尺ばかりありけるに取つて番ひよつ引いて暫し保つてこれは四町余りをつと射渡いて大船の舳に進んで立つたる仁井紀四郎親清が真只中をひやうふつと射て船底へ真倒に射落す
- `もとよりこの浅利与一は精兵の手利きにて二町が中を走る鹿をば外さず強う射けるとぞ聞えし
- `その後は源平の兵共命も惜しまず攻め戦ふ
- `されども平家の御方は十善帝王三種神器を帯して渡らせ給へば源氏いかがあらんずらんと危ふく思ふ処に暫しは白雲かと思しくて虚空に漂ひけるが雲にてはなかりけり
- `主も無き白旗一流舞ひ下がりて源氏の舟の舳に竿付けの緒の障るほどにぞ見えたりける