一一一七〇能登最期
原文
- `女院はこの有様を見参らせ給ひて今はかうとや思し召されけん御硯御焼石左右の御懐に入れて海へ入らせ給ひける
- `渡辺党源五馬允眤小舟をつつと漕ぎ寄せて御髪を熊手に懸けて引き上げ奉る
- `女房達
- `それは女院にて渡らせ給ふぞ
- `過ち仕るな
- `と申されたりければ判官に申して急ぎ御所の御舟へ遷し奉る
- `大納言典侍局は内侍所の御唐櫃を脇に挟んで海へ入らんとし給ひけるが袴の裾を舷に射付けられて蹴纏ひ倒れ給ひけるを武者共取り留め奉る
- `その御唐櫃の鎖を捩ぢ切り御蓋を既に開かんとす
- `忽ちに目眩れ鼻血垂る
- `平大納言時忠卿は生捕にせられておはしけるがこの由を見奉つて
- `それは内侍所の渡らせ給へば凡夫は見奉らぬものぞ
- `と宣へば兵共皆逃げ去りぬ
- `その後時忠卿判官に申し合はせて元の如く絡げ納め奉る
- `さるほどに門脇平中納言教盛修理大夫経盛兄弟手に手取り組み鎧の上に碇を負うて海に沈み給ひける
- `小松新三位中将資盛同少将有盛従弟左馬頭行盛も手に手を取り組み一所で海にぞ入り給ふ
- `人々はかやうにし給へども大臣殿父子はさもし給はず
- `舷に立ち出でて四方きつと見廻しておはしければ平家の侍共あまりの心憂さに傍をつつと走り通るやうにてまづ大臣殿を海へかはと突き入れ奉る
- `これを見て右衛門督やがて続いて飛び給ひぬ
- `人々は重き鎧の上へまた重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈めこの人親子はさもし給はず憖に水練の上手にておはしければ大臣殿は
- `右衛門督沈まば我も沈まん
- `助からば我も共に助らん
- `と思ひ目と目をきつと見交はして彼方此方へ泳ぎ歩き給ひけるを伊勢三郎義盛小舟をつと漕ぎ寄せまづ右衛門督を熊手に懸けて引き上げ奉る
- `大臣殿いとど沈みもやり給はざつしを一所で取り奉つてけり
- `御乳母飛騨三郎左衛門景経この由を見奉つて
- `我が君取り奉るは何者ぞや
- `とて義盛が舟に押し並べて乗り移り太刀を抜いて打つてかかる
- `義盛が童主を討たせじと中に隔たり三郎左衛門に打つてかかる
- `三郎左衛門が打つ太刀に義盛が童甲の真向打ち割られ二の刀に首打ち落さる
- `義盛なほ危なう見えけるを隣の舟より堀弥太郎親経よつ引いてひやうと放つ
- `三郎左衛門内甲を射させて怯む処に義盛が舟に押し並べて乗り移り三郎左衛門に組んで伏す
- `堀が郎等主に続いて乗り移り三郎左衛門が鎧の草摺引き上げて柄も拳も通れ通れと三刀刺いて首を取る
- `大臣殿は生捕にせられておはしけるが乳母子の前にてかやうになるを見給ひていかばかりの事をか思はれけん
- `凡そ能登殿の矢先に廻る者こそなかりけれ
- `今日を最後とや思はれけん赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て鍬形打つたる甲の緒を締め厳物作りの大太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ重籐の弓持つて差し詰め引き詰め散々に射ければ者共多く手負ひ射殺さる
- `矢種皆尽きければ大太刀大長刀左右に持つて散々に薙いで廻り給ふ
- `新中納言知盛卿能登殿の許へ使者を立て
- `いたう罪な作り給ひそ
- `さりとてはよき敵かは
- `と宣へば
- `さては大将軍に組めごさんなれ
- `とて打物茎短かに取り持つて艫舳に散々に薙いで廻り給ふ
- `されども判官を見知給はねば物具のよき武者をば判官かと目を懸けて飛んで懸かる
- `いかがはし給ひたりけん判官の舟に乗り当たり
- `あはや
- `と目を懸けて飛んで懸かる
- `判官叶はじとや思はれけん長刀をば脇に掻い挟み御方の舟の二丈ばかり退いたりけるにゆらりと飛び乗り給ひぬ
- `能登殿早業や劣られたりけんやがて続いても飛び給はず
- `能登殿今はかうとや思はれけん大太刀大長刀をも海へ投げ入れ甲も脱いで捨てられけり
- `鎧の袖草摺をもかなぐり捨て胴ばかり着て大童になつて大手を広げて立たれたる
- `凡そ辺を払つてぞ見えし
- `能登殿大音声を揚げて
- `我と思はん者共は寄つて教経組んで生捕にせよ
- `鎌倉へ下り兵衛佐にもの一詞云はんと思ふなり
- `寄れや寄れ
- `と宣へども寄る者一人もなかりけり
- `ここに土佐国の住人安芸郷を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて凡そ二十人が力現したる大力の剛の者我に劣らぬ郎等一人具したりけり
- `弟の次郎も普通には勝れたる兵なり
- `安芸太郎能登殿を見奉つ
- `心猛うましますとも何ほどの事をかおはすべき
- `たとひ長十丈の鬼なりとも我等三人が掴み付いたらんになどか従へ奉らさではあるるべき
- `いざや組み奉らん
- `とて能登殿の舟に押し並べて乗り移り太刀の鋒を調へて一面に打つて懸かる
- `能登殿まづ真先に進んだる安芸太郎が郎等をば裾を合はせて海へどうと蹴入れ給ふ
- `続いて懸かる安芸太郎をば弓手の脇に掻い挟み弟の次郎をば馬手の脇に取つて挟み一締め締めて
- `いざうれ己等さらば死出の山の供せよ
- `とて生年二十六にて海へつつとぞ入り給ふ