一三一七二一門大路被渡
原文
- `さるほどに二宮返り入らせ給ふと聞えしかば法皇より御迎の御車を参らせらる
- `外戚の平家に囚はれさせ給ひて西海の波の上に漂はせ給ふ御事を御母儀も御乳母持明院の宰相も斜めならず御嘆きありしが今待ち受け参らせ給ひていかばかりらうたく思し召されけん
- `同じき二十六日平氏の生捕共鳥羽に着きてやがてその日都へ入りて大路を渡さる
- `小八葉の車の前後の簾を上げ左右の物見を開く
- `大臣殿は浄衣を着給へり
- `日比は色白う清げにおはせしが潮風に痩せ黒みてその人とも見え給はず
- `されども四方見廻していと心に思ひ入りたる気色もおはせず御子右衛門督清宗は白き直垂にて父の御車の尻にぞ参られける
- `涙に咽び俯して目を見上げ給はず
- `平大納言時忠卿の車も同じう遣り続けられたり
- `讃岐中将時実も同車にて渡さるべかりしが現所労とて渡されず
- `内蔵頭信基は疵を蒙つたりしかば閑道より入りにけり
- `これを見んとて凡そ都の内にも限らず山々寺々より老いたるも若きも多く来たり集まりて鳥羽の南の門作道四塚まではたと続いて見る人幾千万といふ数を知らず
- `人は顧る事を得ず車は輪を廻らす事能はず
- `去んぬる治承養和の飢饉東国北国の軍に人種多く滅びたりといへどもなほ残りは多かりけりとぞ見えし
- `都を出で中一年無下に間近きほどなればめでたかりし事も忘られずさしも恐れ戦きし人の今日の有様夢現とも分きかねたり
- `心なき怪しの賤の男賤の女に至るまで皆涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
- `況して馴れ近づきたる人々の心の内推し量られて哀れなり
- `年来重恩を蒙つて父祖の時より伺候せし輩のさすが身の捨て難さに多くは源氏に付きたりしかども昔の誼忽ちに忘るべきにもあらねばさこそは悲しうも思ひけめ
- `されば袖を顔に押し当て目を見上げぬ者も多かりけり
- `大臣殿の牛飼は木曾が院参の時車遣り損じて斬られたりし次郎丸が弟の三郎丸にてぞありける
- `西国にては仮男に成りたりけるが鳥羽にて判官に申しけるは
- `舎人牛飼など申す者は賤しき下臈の果てにて心あるべきでは候はねども年来召し使はれ参らせ候ひし御志浅からず候ふ
- `何か苦しう候ふべき
- `御許されを蒙りて大臣殿の御最後の御車を今一度仕り候はばや
- `と申しければ判官情ある人にて
- `尤もさるべし疾う疾う
- `とて許されけり
- `三郎丸斜めならずに悦び尋常に装束着懐より遣縄取り出だし付け替へ涙に暮れて行先は見えねども牛の行くに任せて泣く泣く遣りてぞ罷りける
- `法皇は六条東洞院に御車を立てて叡覧ある
- `公卿殿上人の車共同じう立て並べられたり
- `さしも御身近う召し使はれしかば昨日今日のやうに思し召して御涙塞き敢へさせ給はず
- `日比はいかなる人もあの人の目をも懸けられ詞の末にも預からんとこそ思ひしか今日かやうに見なすべしとは誰か思ひ寄りしぞや
- `とて皆袖をぞ濡らされける
- `一年宗盛公内大臣に成りて悦び申しのありしに公卿には花山院大納言兼雅卿を始め奉つて十二人扈従して遣り続けらる
- `蔵人頭親宗以下の殿上人十六人前駆す
- `中納言四人三位中将も三人までおはしき
- `公卿も殿上人も今日を晴れと時めき給へり
- `この平大納言時忠卿その時は未だ左衛門督にておはしけるが御前へ召され参らせてやうやうの引出物賜はつて出で給ひし気色華やかなりし事ぞかし
- `今日は月卿一人もなし
- `同じ壇浦にて生捕にせられたりし二十余人の侍共も皆白き直垂にて鞍の前輪に締め付けてぞ渡されける
- `六条を東へ河原まで渡いてそれより帰りて判官の宿所六条堀川なる所に据ゑ奉つて厳しう守護し奉る
- `御物参らせけれども胸堰き塞がつて御箸をだにも立てられず
- `夜になれども装束をだにも寛げ給はず袖片敷きて臥し給ひたりけるが御子右衛門督に御浄衣の袖をうち着せ給へるを守護の侍共見奉つて
- `哀れ高きも賤しきも恩愛の道ほど悲しかりける事はなし
- `御浄衣の袖をうち着せ給ひたれば幾ほどの事のおはすべきぞ
- `とて皆鎧の袖をぞ濡らしける