一六一七五腰越
原文
- `元暦二年五月七日の日九郎大夫判官義経大臣殿父子具し奉りて既に都を立ち給ふ
- `粟田口にもかかり給へば大内山は雲井の余所に隔たりぬ
- `関の清水を見給ひて大臣殿泣く泣く詠じ給ひけり
- `都をばけふをかぎりのせき水にまたあふさかの影やうつさん
- `道すがらもあまりに心細げにおはしければ判官情ある人にてやうやうに慰め奉り給ふ
- `大臣殿
- `相構へて今度の命を助けて給べ
- `と宣ひける
- `判官
- `さ候へばとて御命失ひ奉るまでの事はよも候はじ
- `たとひさ候ふとも義経かうで候へば今度の勲功の賞に申し替へて御命ばかりは助け奉らん
- `さりながらも遠き国遥かの島へも移しぞ遣り参らせんずらん
- `と申されたりければ大臣殿
- `たとひ夷が千島なりともかひなき命だにもあらばや
- `と宣ひけるこそ口惜しけれ
- `日数経れば同じき二十三日判官鎌倉へ下り着き給ひしかば梶原平三景時判官に一日先立つて鎌倉殿に申しけるは
- `今は日本国は残る所もなう従ひ付き奉りて候ふ
- `さは候へども御弟九郎大夫判官殿こそ終の御敵とは見えさせ給ひて候へ
- `その故は一を以て万とすとて
- `一谷を上の山より義経が落さずば東西の木戸口破れ難し
- `されば生捕をも死捕をもまづ義経にこそ見すべきに物の用にも逢ひ給はぬ蒲殿の方へ見参に入るべきやうやある
- `本三位中将殿を急ぎこれへ賜び候へ
- `賜ばずば参つて給はらん
- `とて既に事出で来んとし候ひしをも景時がよく計らひて土肥に心を合はせて本三位中将殿を土肥次郎実平が許に預け置き奉りて後こそ世は鎮まつて候へ
- `と申しければ鎌倉殿大きにうち頷いて
- `九郎が今日これへ入るなる
- `各用意し給へ
- `と宣へば八箇国の大名小名馳せ集まりて鎌倉殿はほどなくほどなく数千騎にこそなり給へ
- `鎌倉殿は軍兵七重八重に据ゑ置き我が身はその内におはしましながら
- `九郎はすすどき者なればこの畳の下よりも這ひ出でんずる者なり
- `されども頼朝はせらるまじ
- `とぞ宣ひける
- `金洗沢に関据ゑて大臣殿父子受け取り奉つてそれより判官をば腰越へ追ひ返さる
- `判官
- `こはされば何事ぞや
- `去年の春木曾義仲を追討せしより以来今年の春平家を滅ぼし果てて内侍所璽の御箱事故なう宮尾へ還し入れ奉り剰へ大将軍父子生捕にしてこれまで下りたらんずるにはたとひいかなる不思議ありとも一度はなどか対面なからん
- `凡そ九国の惣追捕使にも補せられ山陰山陽南海道いづれなりとも預けられ一方の御固めにも成されんずるかとこそ思ひたれば僅かに伊予国ばかり知行すべき由宣ひて鎌倉中へだにも入れられずして追ひ上せらるる事こは何事ぞや
- `日本国中を鎮むる事は義仲義経が為業にあらずや
- `たとへば同じ父が子にて先に生るるを兄とし後に生るるを弟とするばかりなり
- `天下を知らんに誰かは知らざらん
- `剰へ見参をだに遂げずして追ひ上せらるる事謝するところを知らず
- `と呟かれけれどもかひぞなき
- `判官漸うに陳じ申されけれども景時が讒言の上は鎌倉殿用ひ給はず
- `判官泣く泣く一通の状を書いて広元の許へ遣はさる
- ``源義経乍㆑恐申上候意趣被㆑選㆓御代官其一㆒為㆓勅宣御使㆒平㆓朝敵㆒雪㆓会稽恥辱㆒
- ``可㆑被㆑行㆓勲賞㆒処思外依㆓虎口讒言㆒被㆑黙㆓莫大勲功㆒
- ``義経無㆑犯而蒙㆑科
- ``雖㆓有㆑功而無㆒㆑謬蒙㆓御勘気㆒間空沈㆓紅涙㆒
- ``不㆑被㆑正㆓讒者実否㆒不㆑被㆑入㆓鎌倉中㆒間不㆑能㆑述㆓素意㆒徒送㆓数日㆒
- ``当㆓此時㆒永不㆑奉㆑拝㆓恩顔㆒
- ``骨肉同胞義已絶宿運極似㆑空乎
- ``将亦感㆓先世業因㆒乎
- ``悲哉
- ``此条故亡父尊霊不㆓再誕㆒誰人申被㆓愚意悲嘆㆒
- ``何人垂㆓哀憐㆒乎
- ``事新申状雖㆑似㆓述懐㆒義経彼身体髪膚受㆓父母㆒不㆑経㆓幾時節㆒故頭殿御他界間為㆑孤被㆑抱㆓母懐中㆒自㆑赴㆓大和国宇多郡㆒以来未㆑住㆓一日片時安堵思㆒雖㆑存㆘無㆓甲斐㆒命㆖京都経廻難治間隠㆓身在在所所㆒為㆑栖㆓辺土遠国㆒被㆑服㆓仕土民百姓等㆒
- ``然交契忽純熟為㆓平家一族追討㆒令㆓上洛㆒手合誅戮㆓木曾義仲㆒後為㆑傾㆓平家㆒或時峨峨巌石鞭㆓駿馬㆒為㆑敵不㆑顧㆑亡㆑命
- ``或時漫漫大海凌㆓風波難㆒不㆑痛㆑沈㆓身於海底㆒懸㆓骸於鯨鯢腮㆒
- ``加㆑之枕㆓甲冑㆒業㆓弓箭本意㆒併奉㆑休㆓亡魂憤㆒欲㆑遂㆓年来宿望㆒外無㆓他事㆒
- ``剰義経補㆓任五位尉㆒条当家重職何事若㆑是
- ``雖㆑然今憂深嘆切也
- ``自㆑非㆓仏神御助㆒外争達㆓愁訴㆒
- ``依㆑之以㆓諸神諸社牛王宝印裏㆒全不㆑挿㆓野心㆒旨奉㆑請㆓驚日本国中大小神祇冥道㆒雖㆑書㆓進数通起請文㆒猶以無㆓御宥免㆒
- ``夫我国神国也神不㆑享㆓非礼㆒
- ``所㆑憑非㆑他偏仰㆓貴殿広大慈悲㆒窺㆓便宜㆒令㆑達㆓高聞㆒廻㆓秘計㆒被㆑宥㆓無㆑過旨㆒預㆓放免㆒積善余慶及㆓家門㆒栄花永伝㆓子孫㆒
- ``仍開㆓年来愁眉㆒得㆓一期安寧㆒
- ``不㆑尽㆓書紙㆒
- ``併令㆓省略㆒候畢
- ``義経恐惶謹言
- `元歴二年六月五日
- `源義経進上
- `因幡守殿
- `とぞ書かれたる
書下し文
一
- ``源義経恐れながら申し上げ候ふ意趣は御代官その一つに選ばれ勅宣の御使として朝敵を平らげ会稽の恥辱を雪ぐ
- ``勲賞行はるるべき処に思ひの外に虎口の讒言によつて莫大の勲功を黙せらる
- ``義経犯す事無うして科を蒙る
- ``功有つて謬り無しといへども御勘気を蒙るの間空しく紅涙に沈む
- ``讒者の実否を正されず鎌倉中へだに入れられざる間素意を述ぶるに能はず徒ら数日を送る
- ``この時に当たつて永く恩顔を拝し奉らず
- ``骨肉同胞の義既に絶え宿運極めて空しきに似たるか
- ``はたまた先世の業因を感ずるか
- ``悲しきかな
- ``この条故亡父尊霊再誕し給はずんば誰の人か愚意の悲嘆を申し被かん
- ``いづれの人か哀憐を垂れんや
- ``事新しき申し状述懐に似たりといへども義経かの身体髪膚を父母に受け幾ばくの時節を経ずして故頭殿御他界の間孤子となつて母の懐の内に抱かれて大和国宇多郡に赴きしより以来一日片時安堵の思ひに住せずかひなき命は存すといへども京都の経廻難治の間身を在々所々に隠し辺土遠国を栖として土民百姓等に服仕せらる
- ``然れども交契忽ちに純熟して平家の一族追討の為に上洛せしむる手合せに木曾義仲を誅戮の後平家を傾けんが為に或時は峨々たる巌石に駿馬に鞭打つて敵の為に命を亡ぼさん事を顧みず
- ``ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ身を海底に沈めんことを痛まずして骸を鯨鯢の腮に懸く
- ``しかのみならず甲冑を枕とし弓箭を業とする本意併しながら亡魂の憤を休め奉り年来の宿望を遂げんと欲する外は他事無し
- ``剰へ義経五位尉に補任の条当家の重職何事かこれに若かん
- ``然りといへども今憂へ深く嘆き切なり
- ``仏神の御助にあらずより外はいかでか愁訴を達せん
- ``これによつて諸神諸社の牛王宝印の裏を以て全く野心を差し挿まざる旨日本国中の大小の神祇冥道を請じ驚し奉つて数通の起請文を書き進ずといへどもなほ以て御宥免無し
- ``それ我が国は神国なり神は非礼を受け給ふべからず
- ``頼む所他にあらず偏に貴殿広大の慈悲を仰ぎ便宜を伺ひ高聞に達せしめ秘計を廻らして過り無き旨を宥ぜられ放免に預らば積善の余慶家門に及び栄花永く子孫に伝へん
- ``よつて年来の愁眉を開き一期の安寧を得ん
- ``書紙に尽くさず
- ``併しながら省略せしめ候ひ畢んぬ
- ``義経恐惶謹んで申す