四一八〇平大納言被流
原文
- `九月二十二日平家の余党の都に候ふを国々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ
- `さらば遣はさるべし
- `とて平大納言時忠卿能登国内蔵頭信基上総国讃岐中将時実安芸国兵部少輔正明隠岐国二位僧都専親阿波国法勝寺執行能円佐渡国中納言律師忠快は武蔵国とぞ聞えし
- `或いは西海の波の上或いは東関の雲の果て先途何処を期せず後会その期を知らず別の涙を押さへつつ面々に赴かれけん心の内推し量られて哀れなり
- `中にも平大納言時忠卿は建礼門院の渡らせ給ふ吉田に参つて申されけるは
- `時忠こそ責め重うして今日は既に配所へ赴き候へ
- `最後の御暇申さんが為に官人共に暫しの暇乞うて参つて候ふ
- `都の内にも候ひて御辺の御事共をも承らまほしうこそ存じ候へども今より後またいかなる御有様共にてか渡らせ給ひ候はんずらんと思ひ参らせ候ふにこそ更に行くべき空も覚えまじう候へ
- `と申されければ女院
- `げにも昔の名残とては其処ばかりこそありつれ今は情を懸け問ひ弔ふ人も誰かあるべき
- `とて御涙塞き敢へさせ給はず
- `この時忠卿と申すは出羽前司具信が孫贈左大臣時信の子なりけり
- `高倉上皇の御外戚故建春門院の御兄人また入道相国の北方八条の二位殿も姉にてぞおはしける
- `兼官兼職思ひの如く心の如し
- `されば正二位大納言にもほどなく経上がつて検非違使別当にも三箇度まで成り給へり
- `この人の庁務の時は諸国の窃盗強盗山賊海賊など云ふ奴原をばやうもなく搦め捕つて肘半ばよりふつと打ち切り打ち切り追つ放つたる
- `されば人
- `悪別当
- `とぞ申しける
- `主上並びに三種神器事故なう都へ返し入れ奉れと西国へ仰せ下されける院宣の御使花方が顔に
- `浪方
- `といふ焼印をせられけるも偏にこの時忠卿の為業なり
- `故建春門院の御形見にも御覧ぜまほしう思し召されけれどもかやうの悪行によつて法皇御憤り浅からず
- `判官もまた親しうなられたりければやうやうに申されけれども叶はずしてつひに流され給ひけり
- `子息の侍従時家とて生年十六に成り給ふ
- `これは流罪にも洩れて伯父の時光卿の許におはしけるが昨日より大納言の宿所におはして母上帥典侍殿と共に大納言の袂にすがり今を限りの名残をぞ惜しまれける
- `大納言
- `つひにすまじき別れかは
- `と心強うは宣へども今はの時にもなりしかばさこそは悲しうも思はれけめ
- `年闌け齢傾いて後さしも睦まじかりし妻子にも別れ果てて住み馴れし都をば雲井の余所に顧て古は名をのみ聞きし越路の旅に赴いて遥々と下り給ふにかれは志賀唐崎これは真野入江堅田浦と申しければ大納言泣く泣く詠じ給ひける
- `帰りこん事はかたたに引あみの目にもたまらぬ我がなみだかな
- `昨日は西海の波の上に漂ひて怨憎会苦の恨みを扁舟の内に積み今日は北国の雪の下に埋もれて愛別離苦の悲しみを故郷の雲に重ねたり