五一八一土佐房被斬
原文
- `さるほどに判官には鎌倉殿より大名十人付けられたりけるが
- `内々御不審を蒙り給ふ
- `と聞えしかば心を合はせて一人づつ皆下り果てにけり
- `兄弟なる上殊に父子の契りをして一谷壇浦に至るまで平家を攻め滅ぼし内侍所璽の御箱事故なう都へ還し入れ奉り一天を鎮め四海を澄ます勧賞行はるべきところ何の子細あつてかかる聞えのあるらん
- `と上一人より下万民に至るまで人皆不審をなす
- `この春摂津国渡辺にて逆櫓立てう立てじの論をして大きに欺かれし事を梶原遺恨に思ひ常は讒言してつひに失ひけるとぞ聞えし
- `鎌倉殿
- `いま一日も勢のつかぬ先にぞ急ぎ討手を上いて討たばや
- `とは思はれけれども
- `大名共差し上せば宇治勢田の橋をも引き京都の騒ぎともなりて中々悪しかりなんず
- `いかがせん
- `と思はれけるがここに土佐房正俊を召して
- `和僧上つて物詣でするやうで謀つて討て
- `と宣へば正俊畏り承つて御前を罷り立ち宿所へも帰らずすぐに京へぞ上りける
- `土佐房都へ上つたりけれども次の日まで判官殿は参ぜず
- `判官土佐房が上つたる由聞し召して武蔵房弁慶を以て召されければやがて連れてぞ参つたる
- `判官
- `いかに土佐房鎌倉殿より御文は無きか
- `と宣へば
- `別の御事も候はぬ間御文をば参らせられぬ候ふ
- `御詞で申せ
- `と候ひつるは
- `今まで都に別の子細の候はぬはさて渡らせ給ふ御故と覚え候ふ
- `相構へてよくよく守護せさせ給へと申せ
- `とこそ仰せ候ひつれ
- `と申しければ判官
- `よもさはあらじ
- `義経討ちに上つたる御使なり
- `大名共差し上せば宇治勢田の橋を引き京都の騒ぎともなりて中々悪しかりなんず
- `和僧上つて物詣するやうで謀つて討て
- `とぞ仰せ付けられたな
- `と宣へば土佐房
- `何によつてか只今さる御事の渡らせ給ひ候ふべき
- `聊か宿願の子細候ふによりて熊野参詣の為に罷り上つて候ふ
- `判官
- `さても景時が讒言によつて鎌倉中へだに入れられずして追ひ上せられし事はいかに
- `土佐房
- `その御事はいかがましまし候ふやらん知り参らせぬ候ふ
- `正俊に於いては全く御腹黒思ひ奉らぬ候ふ
- `不忠なき由の起請文を書き進ずべき
- `由を申す
- `判官
- `とてもかくても鎌倉殿によしと思はれ奉りたる身ならばこそ
- `とて以ての外気色悪しげに見え給へば土佐房一旦の害を遁れんが為に居ながら七枚の起請を書き或いは焼いて飲み或いは社の宝殿に籠めなどして許りて帰り大番衆の者共催し集めてその夜やがて寄せんとす
- `判官は磯禅師といふ白拍子の娘静といふ女を寵愛せられけり
- `静傍らを立ち去る事候はず
- `静申しけるは
- `大路は皆武者で候ふなる
- `御内より催しのなからんにこれほどまで大番衆の者共が騒ぐべき事や候ふべき
- `いかさまにもこれは昼の起請法師が為業と覚え候ふ
- `人を遣はして見せ侍らはばや
- `とて六波羅の故入道相国の召し使はれける禿を三四人召し使はれけるを二人見せに遣はす
- `ほど経るまで帰らず
- `女は中々苦しかるまじとて端者を一人見せに遣はす
- `やがて走り帰つて
- `禿と思しき者は両人ながら土佐房が門の前に斬り伏せられて候ふ
- `宿所の門の前に鞍置馬共引き立て引き立て大幕の内には者共鎧着矢掻き負ひ弓押し張り甲の緒を締め只今寄せんと出で立ち候ふ
- `少しも物詣の気色とは見え候はず
- `と申しければ判官
- `さればこそ
- `とて太刀取つて出で給へば静着背長取つて投げ懸け奉る
- `高紐ばかりして出で給へば馬に鞍置いて中門の口に引き立てたり
- `判官これにうち乗り
- `門開けよ
- `とて開けさせ今や今やと待ち給ふ処に夜半ばかりに土佐房直甲四五十騎門の前に押し寄せて鬨をどつとぞ作りける
- `判官鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
- `夜討にもまた昼戦にも義経容易う討つべき者は日本国には覚えぬものを
- `とて馳せ廻り給へば馬に当てられじとや思ひけん五十騎ばかりの兵共中を開けてぞ通しける
- `さるほどに伊勢三郎義盛奥州佐藤四郎兵衛忠信江田源三熊井太郎武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵共声々に名乗つて馳せ来たる
- `その外侍共
- `御内に夜討入りたり
- `とて彼処の宿所此処の屋形より馳せ来たるほどに判官ほどなく六七十騎になり給ひぬ
- `土佐房は猛う寄せたれども助かる者は少なう討たるる者ぞ多かりける
- `土佐房叶はじとや思ひけん稀有にして鞍馬の奥へ引き退く
- `鞍馬は判官の故山なりければかの師搦め捕つて次の日判官殿へ遣はす
- `僧正谷といふ所に隠れ居たりけるとかや
- `土佐房その日は褐の直垂に出張頭巾をぞしたりける
- `判官縁に立つて土佐房を大庭に引き据ゑさせ
- `いかに土佐房起請には早くも討てたるぞかし
- `と宣へば
- `さん候ふ
- `ある事に書いて候へば討てて候ふ
- `と申す
- `判官はらはらと涙を流いて
- `主君の命を重んじて私の命を軽んず志のほどまことに神妙なり
- `和僧命惜しくば助けて鎌倉へ返し遣はさんはいかに
- `と宣へば土佐房居直り畏つて
- `こは口惜しき事をも宣ふものかな
- `助からう
- `と申さば殿は助け給ふべきか
- `鎌倉殿の
- `法師なれども己ぞ狙はんずる者
- `と仰せを蒙つしより以来命をば兵衛佐殿に奉りぬ
- `なじかは二度取り返し奉るべき
- `ただ芳恩には疾く疾く頭を刎ねられ候はばや
- `と申しければ
- `さらば
- `とてやがて六条河原へ引き出でてぞ斬りてんげる
- `褒めぬ人こそなかりけれ