八一八四伯瀬六代
原文
- `さるほどに文覚坊も出で来たり
- `若君乞ひ受け奉りたり
- `とて気色まことにゆゆしげなり
- `この若君の父三位中将殿は初度の軍の大将軍にておはしければ誰申すとも叶ふまじき
- `由宣ふ間
- `聖心を破つてはいかでか冥加もおはすべき
- `など様々悪口申しつれどもなほも叶ふまじき由宣ひて那須野の狩りに出で給ひし間剰へ文覚も狩場の供して様々に申して乞ひ受け奉りたり
- `いかに遅うおはしつらん
- `など宣へば北条申されけるは
- `聖の二十日と仰せられし約束の日数も過ぎぬ
- `今は鎌倉殿御許されなきぞと心得具し奉りて下り候ふほどに賢うぞ只今此処にて誤ち仕らざる
- `とて鞍置いて引かせられたりける乗替共に斎藤五斎藤六を乗せて上せらる
- `我が身も遥かにうち送り
- `いま暫くも御供申すべう候へどもこれは鎌倉殿に指いて披露仕るべき大事共数多候へば暇申す
- `とてそれより互ひうち別れてぞ下られける
- `まことに情深かりけり
- `さるほどに文覚上人若君受け取り奉つて夜を日に継いで上るほどに尾張国熱田の辺にて今年も既に暮れにけり
- `明くる正月五日の夜に入りて都へ帰り上り着き二条猪熊なる所に文覚坊の宿房のありければそれに落ち着いて暫く休め奉つて夜半ばかり大覚寺へぞ入れ奉る
- `門を叩けども人無ければ音もせず若君の飼ひ給ひける白い狗の築地の崩れより走り出でて尾を振つて向かひけるに
- `母上は何処にましますぞ
- `と問はれけるこそいとほしけれ
- `斎藤五斎藤六案内は知つたり築地を越え門を開けて入れ奉る
- `近う人の住んだる所とも見えず
- `これはされば何と成り給ひぬる事共ぞや
- `知らずいかにもして命をばかうと思ひしも恋しき人々を今一度見ばやと思ふ為なり
- `とて終夜嘆き悲しみ給ふにぞまことに理と覚えて哀れなる
- `夜を待ち明かし近里の者共に問ひ給へば
- `年の内は大仏参りと聞えさせ給ひしが正月のほどは長谷寺に籠らせ給ふと承り候へ
- `近う御宿所へ人の通ふとも見候はず
- `と申しければ斎藤五急ぎ長谷へ下り母上に尋ね逢ひ奉つてこの由申しければ取る物も取り敢へず急ぎ上らせ給ひて若君を見参らせ給ふにつけてもただ尽きせぬものは涙なり
- `母上
- `早々出家し給へ
- `とありしかども文覚惜しみ奉つて御出家をばせさせ奉らず高雄へ迎へ取つて母上幽かなるをも常に扶持しけるとぞ聞えし
- `観音大慈悲は罪あるも罪なきをも助け給ふ事なれば昔もかかる例し多しといへども有難かりし事共なり