二一八七大原入
原文
- `緑衣監使宮門を守るだにもなし
- `心のままに荒れたる籬は茂き野辺よりも露けく折知り顔にいつしか虫の声々恨めるも哀れなり
- `さるままに夜も漸う長くなればいとど御寝覚がちにて明かしかねさせ給ひけり
- `尽きせぬ御物思ひに秋の哀れさへうち添ひていとど忍び難くぞ思し召されける
- `何事も皆変はり果てぬる憂き世なれば自づから情を懸け奉るべき昔の草の縁も皆枯れ果てて誰育み奉るべしとも覚えず
- `されども冷泉大納言隆房卿の北方七条修理大夫信隆卿の北方より忍びつつ弔ひ申させ給ひけり
- `女院
- `その昔あの人共の育みにてあるべしとは露も思し召しよらざりしものを
- `とて涙を流させ給ひければ付き参らせたる女房達も皆袖をぞ濡らされける
- `この御住まひも都近くて玉鉾の道行人の人目も繁ければ露の御命の風を待たんほどは憂き事聞かぬ深き山の奥の奥へも入りなばや
- `とは思し召されけれどもさるべき御便もましまさず
- `ある女房の吉田に参りて申しけるは
- `大原山の奥寂光院と申す所こそ閑かに候へ
- `と申しける
- `女院
- `山里は物の寂しき事こそあるなれども世の憂きよりは住みよかんなるものを
- `とて思し召し立たせ給ひけり
- `御輿などをば隆房卿の北方の御沙汰ありけるとかや
- `文治元年長月の末にかの寂光院へ入らせおはします
- `道すがら四方の梢の色々なるを御覧じ過ぐさせ給ふほどに山陰なればにや日も既に暮れかかりぬ
- `野寺の鐘の入相の音凄く分くる草葉の露茂みいとど御袖濡れ増さり嵐烈しく木の葉乱りがはし
- `空掻き曇りいつしかうち時雨れつつ鹿の音幽かに音信れて虫の恨みも絶々なり
- `とにかくに取り集めたる御心細さ譬へやるべき方もなし
- `浦伝ひ島伝ひせしかどもさすがかくは無かりしものをと思し召すこそ悲しけれ
- `岩に苔生して寂れたる所なれば住ままほしくぞ思し召す
- `露結ぶ庭の萩原霜枯れて籬の菊の枯々に移ろふ色を御覧じても御身の上とや思しけん
- `仏の御前へ参らせ給ひて
- `天子聖霊成等正覚頓証菩提
- `と祈り申させ給ひけり
- `いつの世にも忘れ難きは先帝の御面影
- `ひしと御身に添ひていかならん世にも忘るべしとも思し召さず
- `さて寂光院の傍らに
- `方丈
- `なる御庵室を結び一間をば寝所に定め一間をば仏所に設ひ昼夜朝夕の御勤め長時不断の御念仏怠る事なくして月日を送らせ給ひけり
- `かくて神無月中の五日の暮れ方に庭に散り敷く楢の葉を物踏み鳴らして聞えければ女院
- `世を厭ふ処に何者の問ひ来るぞ
- `あれ見よや
- `忍ぶべき者ならば急ぎ忍ばん
- `とて見せらるるに小鹿の通るにてぞありける
- `女院
- `さていかにや
- `と仰せければ
- `大納言典侍殿涙を押さへて
- `岩ねふみ誰かはとはん楢の葉のそよぐは鹿のわたるなりけり
- `女院哀れに思し召してこの歌を窓の小障子に遊ばし留めさせおはします
- `かかる御徒然の中にも思し召し準ふる事共は辛き中にも数多あり
- `軒に並べる樹をば七重宝樹と象れり
- `岩間に湛ふる水をば八功徳水と思し召す
- `無常は春の花風に随つて散り易く有涯は秋の月雲に伴つて隠れ易く昭陽殿に花を翫びし朝には風来たつて匂ひを散らし長秋宮に月を詠ぜし夕べには雲覆つて光を隠す
- `昔は玉楼金殿に錦の褥を敷き妙なる御住まひなりしかども今は柴引き結ぶ草の庵余所の袂も萎れけり