三一八八大原御幸
原文
- `かかりしほどに法皇は文治二年の春の比建礼門院の大原の閑居の御住居御覧ぜまほしう思し召されけれども如月弥生のほどは風烈しく余寒も未だ尽きず
- `峰の白雪消えやらで谷の氷柱もうち解けず春過ぎ夏来たつて北祭も過ぎしかば法皇夜を籠めて大原の奥へ御幸成る
- `忍びの御幸なりけれども供奉の人々には徳大寺花山院土御門以下公卿六人殿上人八人北面少々候ひけり
- `鞍馬通りの御幸なればかの清原深養父が補陀洛寺小野皇太后宮の旧跡叡覧あつてそれより御輿に召されけり
- `遠山に懸かる白雲は散りにし花の形見なり
- `青葉に見ゆる梢には春の名残ぞ惜しまるる
- `比は卯月二十日余りの事なれば夏草の繁木が末を分け入らせ給ふに初めたる御幸なれば御覧じ慣れたる方もなく人跡絶えたるほども思し召しやられて哀れなり
- `西の山の麓に一宇の御堂あり
- `即ち寂光院これなり
- `古う作りなせる泉水木立由ある様の所なり
- `甍破れては霧不断の香を焚き樞落ちては月常住の燈を掲ぐ
- `ともかやうの所をや申すべき
- `庭の夏草茂り合ひ青柳糸を乱りつつ池の浮草波に漂ひ錦を曝すかと誤たる
- `中島の松に懸かれる藤波の裏紫に咲ける色青葉混じりの遅桜初花よりも珍しく岸の山吹咲き乱れ八重立つ雲の絶え間より山時鳥の一声も君の御幸を待ち顔なり
- `法皇これを叡覧あつてかうぞ遊ばされける
- `池水に汀のさくらちりしきてなみの花こそさかりなりけれ
- `古りにける岩の断間より落ち来る水の音さへ故び由ある所なり
- `緑蘿の垣翠黛の山絵に書くとも筆も及び難し
- `女院の御庵室を御覧ずれば軒には蔦牽牛這ひ懸かり忍交じり忘れ草
- ``瓢箪屡空草滋㆓顔淵之巷㆒藜藋深鎖雨湿㆓原憲之枢㆒
- `とも云つつべし
- `杉の葺目も疎らにて時雨も霜も置く露も洩る月影に争ひて堪るべしとも見えざりけり
- `後ろは山前は野辺いささ小篠に風騒ぎ世に堪へぬ身の習ひとて憂き節繁き竹柱都の方の言伝は間遠に結へる籬垣や僅かに事問ふ物とては峰に木伝ふ猿の声賤が爪木の斧の音これらが音信ならでは柾の葛青葛来る人稀なる所なり
- `法皇
- `人やある人やある
- `と召されけれども御答へ申す者もなし
- `ややあつて老い衰へたる尼一人参りたり
- `女院は何処へ御幸成りぬるぞ
- `と仰せければ
- `この上の山へ花摘みに入らせ給ひて候ふ
- `と申す
- `さこそ世を厭ふ御習ひといひながらさやうの事に仕へ奉るべき人も無きにや
- `御痛はしうこそ
- `と仰せければこの尼申しけるは
- `五戒十善の御果報尽きさせ給ふによつて今かかる御目を御覧ぜられ候ふにこそ
- `捨身の行になじかは御身を惜しませ給ひ候ふべき
- `因果経には
- `欲知過去因見其現在果欲知未来果見其現在因
- `と説かれたり
- `過去未来の因果を予て悟らせ給ひなばつやつや御嘆きあるべからず
- `昔悉達太子は十九にて伽耶城を出で檀特山の麓にて木の葉を連ねては膚を隠し峰に上つて薪を採り谷に下りて水を結び難行苦行の功によつてつひに成等正覚し給ひき
- `とぞ申しける
- `この尼の有様を御覧ずれば絹布の分きも見えぬ物を結び集めてぞ着たりける
- `あの有様にてもかやうの事申す不思議さよ
- `と思し召して
- `抑も汝はいかなる者ぞ
- `と仰せければこの尼さめざめと泣いて暫しは御返事にも及ばず
- `ややあつて涙を押さへて
- `申すにつけて憚り覚え候へども故少納言入道信西が娘阿波内侍と申す者にて候ふなり
- `母は紀伊二位
- `さしも御いとほし深うこそ候ひしに御覧じ忘れさせ給ふにつけても身の衰へぬるほども思ひ知られて今更せん方なうこそ覚え候へ
- `とて袖を顔に押し当て忍び敢へぬ様目も当てられず
- `法皇
- `されば汝は阿波内侍にこそあなれ
- `今更御覧じ忘れける
- `ただ夢とのみこそ思し召せ
- `とて御涙塞き敢へ給はず
- `供奉の人々も
- `不思議の尼かなと思ひたれば理りて申しけり
- `とぞ各感じ合はれける
- `さて彼方此方を叡覧あれば庭の千種露重く籬に倒れ懸かりつつ外面の小田も水越えて鴫立つ隙も見え分かず
- `御庵室に入らせ給ひて障子を引き開けて御覧ずれば一間には来迎の三尊おはします
- `中尊の御手には五色の糸を懸けられたり
- `左には普賢画像右に善導和尚並びに先帝の御影置きたり
- `八軸の妙文九帖の御書も懸けられたり
- `蘭麝の匂ひに引き替へて香の煙ぞ立ち上る
- `かの浄名居士の方丈の室の内には三万二千の床を並べ十方の諸仏を請じ奉り給ひけんもかくやとぞ覚えける
- `障子には諸経の要文共色紙に書いて所々に押されたり
- `その中に大江定基法師が清涼山にして詠じたりけん
- `笙歌遥聞孤雲上聖衆来迎落日前
- `とも書かれたり
- `少し引き退けて女院の御製と思しくて
- `おもひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは
- `さて傍らを御覧ずれば御寝所と思しくて竹の御竿に麻の御衣紙の御衾など懸けられたり
- `さしも本朝漢土の妙なる類数を尽くし綾羅錦繍の粧もさながら夢にぞなりにける
- `供奉の人々もまのあたり見参らせし事共なれば今のやうに覚えて皆袖をぞ濡らされける
- `さるほどに上の山より濃墨染の衣着たる尼二人岩の懸道を伝ひつつ下り煩はせ給ひけり
- `法皇御覧あつて
- `あれは何者ぞ
- `と仰せければ老尼涙を押さへて申しけるは
- `花篋肱に懸け岩躑躅うち添へて持たせ給ひたるは女院にて渡らせ給ひ候ふなり
- `爪木に蕨折り具して候ふは鳥飼中納言維実の娘五条大納言国綱の養子先帝の御乳母大納言典侍局
- `と申すも敢へず泣きけり
- `法皇も哀れげに思し召して御涙塞き敢へさせ給はず
- `女院も
- `世を厭ふ御習ひといひながら今かかる有様を見え参らせんずらん恥づかしさよ
- `消えも失せばや
- `と思し召せどもかひぞなき
- `宵々毎の閼伽の水結ぶ袂も萎るるに暁起きの袖の上山路の露も滋しくて絞りやかねさせ給ひけん山へも帰らせ給はず御庵室へも入らせおはしまさずあきれて立たせましましたる所に内侍の尼参りつつ花篋をば賜はりけり
書下し文
一
- ``瓢箪しばしば空し草顔淵の巷に滋し藜藋深く鎖せり雨原憲の枢を湿ほす