五五我身栄花
現代語訳
- `自身が栄華を極めるのみならず、一門こぞって繁栄し、嫡子・重盛は内大臣左大将、次男・宗盛は中納言右大将、三男・知盛は三位中将、嫡孫は維盛四位少将となり、すべて一門で、公卿が十六人、殿上人が三十余人、諸国の受領・衛府・諸司、総勢六十余人となった
- `世には他に人材がいないかのように見えた
- `昔、聖武天皇の時代の神亀五年、朝廷に中衛大将を置かれ、大同四年に中衛を近衛と改められて以来、兄弟が左右の大将となったのはわずかに三・四度である
- `文徳天皇の時代には、左に兄・良房右大臣左大将、右に弟・良相大納言右大将、二人は閑院左大臣・藤原冬嗣の御子である
- `朱雀院の時代には、左に兄・実頼小野宮殿、右に弟・師輔九条殿、藤原貞信の御子である
- `御冷泉院の時代には、左に弟・教通大二条殿、右に兄・頼宗堀川殿、御堂関白・藤原道長の御子である
- `二条院の時代には、左に兄・基房松殿、右に弟・兼実月輪殿、法性寺殿・藤原忠通の御子である
- `彼らは皆摂政・関白の御子であって、並の家柄でそうした例は存在しない
- `殿上の交わりすら嫌われていた者の子孫が、禁色や直衣の着用を許され、きらびやかな衣を身にまとい、大臣の大将となって、兄弟が左右の大臣として肩を並べるなどとは、末の世とはいえ不思議なことである
- `ほかに、娘が八人いらした
- `皆それぞれ幸せであった
- `一人は桜町中納言・藤原成範の北の方となられる予定であったが、八歳のときに約束を交わさただけで、平治の乱の後に話を変えられ、後に花山院左大臣・藤原兼雅の北の方となり、公達が数多いらした
- `この成範を
- `桜町中納言
- `と言うのは、実に風雅な人で、普段は吉野山を恋し、一町四方に桜を植え並べ、その内に屋敷を建てて住み、来る春ごとに見る人が皆
- `桜町
- `と呼んだためである
- `七日で咲いて散るの桜を名残惜しみ、天照大神に祈ったからか、二十一日間咲き残った
- `賢明な君主だったので、神も功徳を与え、花にも心があったため、二十日の命を保ったのである
- `娘の一人・徳子は高倉天皇の后となられた
- `皇子のご誕生があって、皇太子となり、安徳天皇になられると、院号を授かって建礼門院と号した
- `清盛の娘である上、帝の母であるから、申し分がない
- `一人は六条摂政・藤原基実の北の方となられた
- `高倉上皇が御在位の時代、御養母として准三后の宣旨を授かり、白河殿という貴い人であられた
- `一人は普賢寺殿・藤原基通の北の方となられ
- `一人は七条修理大夫・藤原信隆の北の方となられた
- `一人は七条冷泉大納言・藤原隆房の北の方、また安芸国厳島の巫女を生母とした一人は後白河法皇の側女となり、まるで女御のようであられた
- `そのほか、九条院・呈子の雑仕・常磐を生母とする娘が一人
- `花山院殿・藤原兼雅の上臈女房となった人で、廊の御方という
- `日本列島はわずかに六十六か国、平家の支配する国は三十余か国、既に半国を超えていた
- `そのほか、荘園・田畑は数知れない
- `きらびやかさが充ち満ちて、御殿は花園のようであった
- `貴人の車馬が引きも切らず群れ集まる
- `楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、あらゆる財宝に何ひとつ欠けたものはない
- `歌舞の堂閣の基礎、魚龍爵馬の演芸、おそらくは内裏も院の御所もこれには及ぶまいと見えた