一一四三医師問答
現代語訳
- `重盛殿はこのような動向をなにかと心細く思っていたようで、熊野へ詣でられたことがある
- `本宮・証誠殿の御前で静かに法施を行い、夜通し神に向かって
- `父・清盛の様子を見ると、悪逆無道にして、ややもすれば帝までも悩ませております
- `私は長男としてしきりに諫めておりますが、我が身がいたらず、父は耳を貸してくれません
- `そのふるまいを見るに、父一代の栄華すら危ういものです
- `一族子孫が次々出世し、名を上げるのが困難になりつつあります
- `この時に臨み、不肖ながら私はこう思います
- `なまじ高い地位に列して、世間の海に浮き沈みするのは決して良臣・孝子ではありません
- `地位や名誉を捨てて身を退き、現世の名声や人望を投げ捨て、来世の菩提を求めることに勝るものはありません
- `しかし、私は果報も薄い凡人で、善悪にも迷う者ですので、志も思うようになりません
- `南無権現・金剛童子、どうか子孫の繁栄が絶えぬよう、朝廷に仕えていられるよう、父の悪心を和らげ、天下を安泰にしてください
- `栄華が父一代限りのもので、後に我らの子孫が恥を受けることになるのなら、この重盛の運命を縮めて来世の苦の輪廻からお救いください
- `この二つの願いに、どうかご助力ください
- `と精根を振り絞って祈られると、燈籠の火のようなものが重盛殿の体から出て、ふっと消えるように見えなくなった
- `人がたくさん見ていたが、恐れて誰も言わなかった
- `重盛殿が熊野から戻られる途中、岩田川を渡られていたときのこと、嫡子・権亮少将維盛殿以下の公達が、浄衣の下に薄色の衣を着ていたが、夏なのでなにげなく水遊びなどされていると、浄衣が濡れて衣が透け、まるで喪服のように見えたので、筑後守・平貞能がこれを見咎め
- `なんだか、あの浄衣はなんだかとても不吉な感じがする
- `急いで着替えていただこう
- `と言うと、重盛殿は
- `さては我が願いがもう成就したのだな
- `浄衣は決して着替えてはならん
- `と言われたので、人々は奇妙に思ったが、その本心はわからなかった
- `ところが不思議なことに、この公達はほどなく本当の喪服を着ることになった
- `その後、重盛殿は熊野から戻って何日も経たないうちに病に臥された
- `熊野権現が既に願いをお聞き届けくださったのだ
- `と治療も祈祷もなさらなかった
- `当時、宋から優れた名医が我が国に滞在していた
- `ちょうど清盛入道は福原の別邸にいらしたので、越中前司・平盛俊を重盛殿のもとへ使者として遣わされた
- `病がますます重くなったと聞いている
- `かねてより宋から優れた名医が来ている
- `ちょうどよい
- `その者を呼ぶから医療してはどうか
- `と伝えられると、重盛殿は抱き起こされながら、盛俊を御前へ召して対面した
- `まず治療については
- `謹んで承りました
- `と伝えてもらいたい
- `しかし、おまえもよく聞いてくれ
- `醍醐天皇はあれほどの名君であられたが、異国の人相占い師を都の中へ入れられたことを、末代までも賢王としての過ちであり我が国の恥であるとお思いであった
- `ましてや、この重盛ふぜいの凡人が、異国の医師を都の中へ入れたとあっては、国の恥ではないか
- `漢の高祖は、三尺の剣を提げて天下を治めたが、淮南の黥布を討ったとき、流れ矢に中って負傷した
- `后の呂太后が良医を迎えて診察させると、医者は
- `傷は治してさしあげましょう
- `ただし、五十斤の金を頂戴します
- `と言った
- `高祖は
- `我が守護神が強かったときは、多くの合戦で負傷しても、痛くなかった
- `運が既に尽きたのだ
- `命は天の定めだ
- `たとえ扁鵲のような名医であっても、何の役に立つというのか
- `かといって、治療を断れば金を惜しんだように見える
- `と、五十斤の金を医師に与えながら、ついに治療をしなかった
- `先人の言葉は耳に残り、今なお共鳴する
- `おれは身分不相応にも公卿の一人となり、大臣の地位を得た
- `その運命は天の心が掌っている
- `天の心を察しもせずに、愚かに治療を受けてよいものか
- `この病がもしも前世の報いであったら、治療したところで無意味だろう
- `また前世の業でなければ、治療しなくても助かるだろう
- `釈尊の弟子であった医者・耆婆でさえ力及ばず、釈尊は抜提河のほとりで入滅した
- `これは前世の報いによる病は治らないことを示している
- `治す相手は仏だった
- `治療したのは名医の耆婆だった
- `前世の報いによる病が、もし医療によって治るのなら、なぜ釈尊は入滅したのだ
- `前世の報いによる病は治らないことは明白だ
- `我が身は仏の体でもないし、宋の名医もまた耆婆には及ぶまい
- `たとえ四部の書を参照してあらゆる治療に長けていようとも、どうしてこんな穢れた我が身を治せようか
- `たとえ五経の説を詳しく調べて人々の病を治そうとも、どうして前世の報いによる病を治せようか
- `もし、その医者の腕で延命したら、我が国の医術はないに等しいのだぞ
- `医術の効き目がないなら会っても無駄だ
- `とりわけ、我が国の大臣であるおれが、異国からふらりとやって来た者に会うなどいうのは、国の恥であり、政道の衰退にもつながる
- `たとえおれが死のうとも、国の恥を思う心をわかってほしい
- `そう伝えてくれ
- `と言われた
- `盛俊は泣きながら福原へ駆け戻り、このことを伝えると、清盛入道は
- `国の恥を思う大臣など、かつて聞いたことがない
- `ましてや後世に現れるとも思えない
- `日本にふさわしからぬ大臣だから、きっと死んでしまうだろう
- `と言って急いで都へ上られた
- `同・治承三年七月二十八日、重盛殿は出家された
- `法名は
- `浄蓮
- `と名づけられた
- `そして八月一日、臨終正念のうちに、ついに亡くなった
- `御歳、四十三歳であった
- `人生の盛りであっただろうに哀れなことである
- `清盛入道があれほど横暴にふるまっても、重盛殿があれこれなだめられたがゆえに今日まで世は平穏だったのだ
- `明日から世の中にどんなことが起きるんだろうか
- `と人々は皆嘆き合った
- `前右大将・平宗盛卿の側近の者たちは
- `これから宗盛殿の時代がやってくる
- `と、勇み喜び合った
- `親が子を思う心の常で、愚かな子でも先立たれるのは悲しいものだ
- `ましてや重盛殿は平家の棟梁であり、当代きっての賢人でいらしたので、愛する息子との別れ、一門の衰退、いずれを悲しんでも余りあるものだった
- `ゆえに、世間では良臣を失ったことを嘆き、平家では武略が廃れてしまうことを悲しんだ
- `重盛殿には品格があり、忠孝の心があり、才能・技芸に優れ、その言葉は徳を備えていた