一八五〇法皇被流
現代語訳
- `同・十一月二十日、院の御所・法住寺殿を軍兵が包囲した
- `平治の乱の際、藤原信頼が、当時の後白河法皇の御所・三条殿にしたのと同様、御所に火をかけて皆焼き殺すつもりだろうというので、局の女房や女童たちは物も持たずに我先に逃げ出した
- `前右大将・平宗盛卿が車を寄せて
- `お早くお早く
- `と言われると、法皇は驚かれ
- `成親や俊寛らのように遥か彼方の島へ流すつもりなのか
- `朕は咎を受けるようなことはしておらぬぞ
- `高倉帝があんなふうでいらっしゃるから政務に口を出しているだけだ
- `それもだめだというなら、これからはやめる
- `と仰せになると、宗盛卿は
- `そのことではございません
- `しばらく世を鎮める間、鳥羽の北殿へお移りしていただけ
- `と父・清盛が申しているのです
- `と言われると
- `ならば宗盛、すぐにお供せよ
- `と仰せになったが、父・清盛入道の顔色に恐れをなしてお供しようとしない
- `ああ、こういうところを見ても、兄・重盛とは比べものにならないほど劣っている
- `先年も同じようなことがあったとき、重盛は身を盾にして防いでくれたので今日まで安心していられたのだ
- `もう諫める者がいなくなったから、こんなふるまいをするんだな
- `平家の行末も長くはない
- `と思われると、涙をお止めになれなかった
- `そして御車にお乗りになった
- `公卿や殿上人、一人もお供されない
- `金行という北面の力者法師が付き従うばかりであった
- `車の後ろに尼御前が一人乗られた
- `この尼御前というのは、法皇の乳母である紀伊二位・朝子殿のことである
- `七条大路を西へ、朱雀大路を南へ向かわれた
- `ああ、法皇がお流されになるぞ
- `と、情の薄い賤しい者たちまで皆涙を流し、袖を濡らさない者はなかった
- `去る七日の夜の大地震もこの前触れで、地の底までも揺れて大地の神が驚かれたであろうことももっともだ
- `と人は言った
- `そして鳥羽殿へ御幸したが、御前には誰もおらず、大膳大夫信成がただ一人、どうやって紛れ込んだのか御前の近くに控えていたので、召して
- `朕は遠からず殺されるような気がする
- `行水したいのだが、どうしたらよいものか
- `と仰せになるので、信成はただでさえ今朝から気が動転して呆然としていたが、こう仰せられたことのありがたさに、狩衣にたすき掛けをして、釜に水を汲み入れ、垣根の小枝を折り、大床の柱を割るなどして、形どおりに湯を沸かして奉った
- `また静憲法印は、西八条の清盛入道邸に出向いて
- `昨夜、後白河法皇が鳥羽殿へお入りになりましたが、御前に誰もいなかったと聞き、ひどいことだと思っております
- `私だけでも法皇のもとに参りたいと思うのですが、差し支えはありますまいな
- `と言われると、清盛入道は何を思ったか
- `そなたは間違いを犯す人ではない
- `お急ぎなされ
- `と言って許された
- `静憲法印はたいへん喜び、急いで鳥羽殿へ参り、門前で車から下り、門内へ入られると、折しも法皇は読経のさなかであった
- `その声にはなにかすごいものが感じられた
- `静憲法印がさっと参上したとき、誦されている御経の上に涙がほろほろとこぼれ落ちるのが見えたので、法印はあまりの悲しさに僧衣の袖を顔に押し当て、泣きながら御前に進んだ
- `御前には尼御前・紀伊二位だけがいらした
- `これは、静憲御坊、そなたはは昨日の朝、法住寺殿で食事をされてからは昨夜も今朝もなさらず、長い夜もお休みになっておられませんが、もうお命にかかわるように見えます
- `と言われると、静憲法印は涙をこらえて
- `どんなものでも限りはあるもので、平家も世に君臨して二十余年
- `しかし悪行の度が過ぎて、滅びようとしています
- `そのような折、天照大神や正八幡宮がどうして法皇をお見捨てになるでしょうか
- `とりわけ法皇のお頼みなさる日吉山王七社は、法華経守護の御誓いが変わらない限り、法華経八巻にかけて法皇をお守りくださるに違いありません
- `そうすれば、法皇が政務を執る時代となり、凶徒は水の泡と消え失せることでしょう
- `と言われると、法皇はその言葉に少し安堵された
- `高倉天皇は、関白基房殿が流され、臣下が多く滅んでしまったことをお嘆きであったが、今また法皇が鳥羽殿へお入りになったことをお聞きになり、まったく食事もお取りにならず、病と称され、いつも寝所にお入りになった
- `御前にお仕えする女房たちは、中宮をはじめ、どうしてよいのかわからなかった
- `法皇が鳥羽殿へお入りになってからは、内裏では臨時の御神事として、清涼殿にある石灰の壇において、高倉天皇が夜毎に伊勢大神宮を拝まれた
- `これはひとえに、法皇の無事を祈られてのことであったという
- `二条院は賢王でいらしたが
- `天子に父母なし
- `と、いつも法皇の仰せに口答えをなさっていたせいか、跡継ぎの皇子もおられなかった
- `ゆえに、譲位を受けられた六条院も、安元二年七月十四日、十三歳でついに崩御した
- `あさましい話である