一五二厳島御幸
現代語訳
- `治承四年一月一日、鳥羽殿には、清盛入道も許さず、後白河法皇も恐れておられたので、三が日の参賀に訪れる人はなかった
- `そんな中、亡き少納言入道・藤原信西の子・桜町中納言重範卿とその弟・左京大夫脩範だけが許されて参賀に訪れた
- `同・治承四年一月二十日、皇太子の御袴着と御真魚始というめでたい儀式が行われたが、法皇は鳥羽殿でそれをよそ事のようにお聞きであった
- `二月二十一日、高倉天皇は、特にご病気でもないのに、無理やり退位させられ、皇太子・言仁親王が皇位を継承された
- `これも清盛入道が万事思いどおりに運ぶための策であった
- `平家の人々は、時勢がよくなった騒いでいた
- `言仁親王に三種の神器、八尺瓊曲玉、天叢雲剣、八咫鏡を渡し奉る
- `公卿たちは宣揚殿の陣の座に集まって、古いしきたりに基づいて儀式を行ったが、左大臣・松殿基房殿が陣の座に出て譲位の宣言をされるのを聞き、情のある人たちは涙を流し、心を痛めた
- `自ら地位を皇太子にお譲りになり、院の御所で静かに世を送ろうとお思になった
- `それでも後々侘びしさは募るものである
- `ましてこの譲位は本心ではなく、無理強いによるご退位なので、その哀れさは語るまでもない
- `伝わる宝物などを役人たちが受け取って、新帝の皇居である五条内裏へ移した
- `高倉上皇の屋敷・閑院殿には、火影がかすかに揺れ、時を告げる役人の声も止まり、警護する滝口武士の対面点呼もなくなってしまったので、古老たちはめでたい祝いでありながら、哀れに思われ、涙を流し袖を濡らしていた
- `新帝・安徳天皇は今年三歳
- `なんとも早すぎる譲位だ
- `と人々はささやき合った
- `平大納言時忠卿は、安徳天皇の乳母・帥典侍の夫なので
- `今回の譲位は早すぎると非難する者もいるだろう
- `異国においては、周の成王が三歳、晋の穆帝が二歳、我が国では、近衛院が三歳、六条院が二歳で即位していて、皆産着姿で装束も正しく着用できなかったが、摂政が背負って即位したり、母后が抱いて朝政に臨んだと、いにしえの書にはある
- `後漢の孝殤皇帝は、生まれて百日で皇位を継承した
- `天子が皇位継承する先例は、和漢このようなものだ
- `と言われると、故事・先例に詳しい人々は
- `なんと恐ろしい、言葉を慎みなされ
- `ならば、それらはよい先例だったと言われるのか
- `と呟き合った
- `皇太子が即位なさったので、清盛入道は夫婦共に外祖父・外祖母として、准三后の宣旨を受け、年官・年爵を賜って、宮廷出仕の者を召し使い、絵柄を描き、花で飾った衣装を着た者たちが出入りし、西八条の屋敷はまるで院の御所のようであった
- `出家の人が准三后の宣旨を受けることについては、御堂関白・藤原道長公の父である法興院大入道殿・藤原兼家公の例がある
- `同・治承四年三月上旬、高倉上皇が安芸の厳島に参詣されるという噂が流れた
- `天皇が譲位されて後の諸社への御幸始めは、石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社のいずれかへ参詣なさるべきなのに、はるばる安芸国へ向かわれるとはどいういうことだ
- `と、人々は不審に思った
- `ある人は
- `白河上皇は熊野権現へ参詣され、後白河法皇は日吉神社へ参詣された
- `このことで、高倉上皇自身のご意志であると知れる
- `上皇は御心に深い御願があり、さらに、平家は厳島をとても崇め敬っているから、表向きは平家に味方すると見せかけ、本心は、法皇がいつまでとなく鳥羽殿に幽閉されておられるので、清盛入道の心を和らげるための計略なのだろう
- `と言っていた
- `延暦寺の大衆は憤慨し
- `天皇が譲位された後の諸社へ御幸始めは、石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社のいずれかでなければ、我らが比叡山の山王権現に参詣なさるのが筋だ
- `安芸国へ参詣なさるなど、いつの慣習だ
- `そういう了見なら、神輿を振り下ろし奉って、行かれるのを妨害するぞ
- `と言った
- `これによって、しばらく延期となった
- `清盛入道があれこれなだめられたので、延暦寺の大衆は静まった
- `同・治承四年三月十七日、高倉上皇は厳島行幸の門出として、清盛入道の北の方・八条二位殿の屋敷である八条大宮へお入りになった
- `その日、ただちに厳島の神事が始められた
- `その日の夕方、内裏より、唐の御車や乗り換えの馬などが用意された
- `翌・十八日、清盛入道の屋敷へお入りになった
- `高倉上皇は前右大将宗盛卿を召して
- `明日、御幸のついでに鳥羽殿へ参って、後白河法皇にお目にかかろうと思うのだが、そちはどう思う
- `清盛入道に知らせないと具合が悪いだろうか
- `と言われると、宗盛卿は
- `問題はないでしょう
- `と奏聞されたので
- `では、そちが今夜鳥羽殿へ参ってその旨を伝えてもらいたい
- `と仰せになったので、かしこまり承って、急いで鳥羽殿へ参上し、この由を奏聞されると、法皇はずっと思っておられたことだったので
- `これは夢か
- `と仰せになった
- `翌・十九日、大宮大納言・藤原隆季卿が、まだ夜も明けないうちに参上し、参詣を促された
- `日頃から語っておられた厳島御幸を、西八条邸から遂げられることになる
- `三月も半ばを過ぎたが、霞に曇る有明の月はおぼろである
- `北国を指して帰る雁が雲間に消えていくのも、時が時だけに哀れにお感じであった
- `まだ夜のうちに鳥羽殿へお入りになった
- `門前で御車から下りられ、門の内へとお入りになったが、人はほとんどおらず、木が茂って暗く、物寂しげな住まいに哀愁をお感じになった
- `春は既に終わろうとしている
- `木立は夏の装いになった
- `梢の花の色は衰え、宮廷のうぐいすは声も老いた
- `去年の一月六日、高倉天皇が年賀挨拶ために法住寺殿へ行幸したときには、楽屋で楽器が鳴らされ、諸卿が立ち並んで衛士が警護し、院に仕える公卿が参り向かって幔幕を張り巡らした門を開き、掃部寮の役人が莚の道を敷き、正しい儀式が行われたが、今年はそれらがまったくなかった
- `今日はただ夢のようにお思いであった
- `桜町中納言・藤原重範殿が参上し、高倉上皇行幸の由を伝えると、法皇は既に寝殿の階隠の間にいらして、お待ちになっていた
- `高倉上皇は今年二十歳、明け方の月の光に映えたお姿はたいへん美しく見えた
- `母君である亡き建春門院殿によく似てこられたので、法皇はすぐに亡き女院のことを思い出され、涙をお流しになった
- `お二人の席は近くに設けられた
- `お話は誰の耳にも届かなかった
- `御前には尼御前・紀伊二位殿だけがいらした
- `しばらくお話をされ、日もずいぶんと高くなってから、お別れを告げられて、上皇は鳥羽の草津から御船にお乗りになった
- `上皇は、法皇の離宮にある幽閑寂莫のお住まいを、気の毒に思われつつご覧になると、法皇もまた、上皇の波の上の旅や、船の中の様子などを心配なさっていた
- `本当に伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社などを差し置かれ、はるばる安芸国まで赴かれることを神明がお受けにならないはずがない
- `御願の成就は疑いなしと見えた