二五三還御
現代語訳
- `同・三月二十六日、高倉上皇は厳島に到着、清盛入道の寵愛する内侍の館を仮御所とされた
- `中二日滞在され、経会や舞楽が催された
- `結願の導師・三井寺の公顕僧正が高座に登り、鐘を打ち鳴らし、表白の言葉を
- `都の宮中を発たれ、八重の潮路を乗り越えて、はるばるとここまで参詣された御志のありがたさよ
- `と高らかに述べると、高倉上皇も臣下たちも皆感動して涙を流された
- `本宮、客人の宮をはじめ、すべての社へ参詣された
- `本宮から五町ほど山をを巡って滝の宮へ参詣された
- `公顕僧正がこう詠んで拝殿の柱に書きつけられたという
- `宮中より下り来る滝の白糸に契りを契りを結べることが嬉しい
- `神主・佐伯景広は従上五位に、国司・藤原有綱も従下四品に加階され、院の殿上も許された
- `厳島神社の座主・尊永は法印になされた
- `神の御心も動き、清盛入道の心も和いだのではないかと見えた
- `同・三月二十九日に船を飾って都へお戻りになった
- `そのとき風が烈しかったので、船を漕ぎ戻させ、その日は厳島内にある有の浦というところに留まられた
- `高倉上皇は
- `みんな、大明神との名残を惜んで歌を詠め
- `と仰せになると、少将・藤原隆房が一首詠んだ
- `立ち返る名残もありの浦だから神もめぐみをかける白波
- `夜更け過ぎに風が静まり、波も穏やかになったので、船を漕ぎ出させ、その日は備後国敷名の港に到着された
- `この地は、去る応保の頃、後白河上皇がお立ち寄りの際、国司・藤原為成が造った御所を、清盛入道が休息所として整備されていたが、高倉上皇はそこへはお越しにならず
- `今日は四月一日だから、衣替えというのがあるぞ
- `と仰せになると、おのおのが都のことを語りはじめ、遠くを眺めておられたとき、岸に色濃い藤が松に咲き掛かっているのを高倉上皇がご覧になって
- `誰かあの花を持ってまいれ
- `と仰せになると、大宮大納言・藤原隆季卿が承り、ちょうど左史生・中原康定が小舟に乗って御前を漕ぎ通るところを呼んで、折りに行かせた
- `藤の花を松の枝につけたまま折ってお渡しすると
- `気が利いているな
- `などと仰せになって、感心された
- `この花で、それぞれ歌を詠め
- `と仰せになると、大納言・藤原隆季殿が詠まれた
- `千年もお生きの君の長寿にあやかって藤波も松の枝に掛かっております
- `二日は備前国児島の港に到着された
- `五日は空が晴れ、風ものどかであったので、上皇の船をはじめ、人々の船もこぞって漕ぎ出した
- `雲のような波、煙のような波を乗り越えられながら、その日は播磨国山田の浦に到着された
- `そこから御輿を召して福原へお入りになった
- `お供の人々は、一日も早く京へ戻るべく急がれたが、六日間滞在され、福原のあちこちをご覧になった
- `池中納言・平頼盛卿の山荘がある荒田までご覧になった
- `翌・七日、福原ご出発の際、平家に恩賞があった
- `清盛入道の養子・丹波守清邦は正下四位、同じく入道の孫・越前少将資盛は従四位に加階されたという
- `その日、寺井に到着された
- `八日は、お迎えの公卿や殿上人が皆鳥羽の草津まで来ておられた
- `都へお帰りになった際は、鳥羽殿へは向かわれず、まっすぐ西八条の清盛入道邸にお入りになった
- `同・四月二十二日、安徳天皇の即位があった
- `大極殿で行われることになっているが、先年焼失してからは再建されていなかった
- `大極殿がない以上、太政官庁で行うべきではないか
- `と公卿たちが評議したとき、九条右大臣・藤原兼実殿が
- `太政官庁など凡人の家に譬えれば荘園事務所程度の場所だ
- `大極殿がない以上、即位は紫宸殿がよかろう
- `と言われたので、紫宸殿において即位された
- `去る康保四年十一月一日、冷泉院の御即位が紫宸殿で行われた際は、天皇がご病気で、大極殿へのお越しが叶わなかったからだ
- `その例についてはどう思うのか
- `やはり後三条院の延久の吉例に従って、太政官庁でするのがよいと思うが
- `と人々は言い合ったが、九条兼実殿のお計らいである以上、是非もなかった
- `皇太子の皇位継承が行われ、中宮は弘徽殿から仁寿殿へ移られて、すぐ玉座へと上られた
- `平家の人々が皆出席する中、小松殿の公達は、去年重盛殿が亡くなったので、喪に服してこもっておられた