一〇六一大衆揃
現代語訳
- `さて、三井寺では、法螺貝を吹き、鐘を鳴らして大衆がまた評議をしていた
- `どうやら延暦寺は心変わりをしたようだ
- `興福寺もまだ到着しない
- `時間が経つと都合が悪い、すぐ六波羅に押し寄せて夜討ちにしよう
- `それなら、老少二手に分かれて、まず老僧たちは如意が峰から背面を突け
- `足軽を四・五百人を先に立てて白河の民家に火を放って焼き払えば、洛中や六波羅の連中も
- `たいへんなことになった
- `と駆け集まってくるだろう
- `そのとき岩坂・桜本あたりで足止めを食わせ、しばらく防戦する間、正面は松坂から、伊豆守仲綱殿を大将軍として、若い衆や荒法師たちが六波羅に突入し、風上に火をかけ焼き払い、一戦交えれば、清盛入道は炙り出される、そこを討ち取ろう
- `と議論した
- `そんな中、平家の祈祷をしていた一如房の阿闍梨・真海は、弟子や住僧数十人引き連れて、評議の庭に進み出ると
- `このようなことを言えば、平家の味方をしていると思われるかもしれません
- `たとえそうであっても、どうして宗徒としての義理を破り、我らが寺の名を惜しまずにいられましょう
- `昔は源平が左右に別れて争い、朝廷をお守りしてきたが、近頃は源氏の運も傾いて、平家が世を支配して二十余年、天下にはなびかぬ草木もありません
- `ゆえに、六波羅の館も小勢ではそうたやすく攻め落とせるとは思えません
- `よくよく計略を巡らし、勢を集め、後日攻め込むのが得策です
- `と、時間稼ぎのために長々と議論した
- `そのとき、乗円房の阿闍梨・慶秀は、衣の下に腹巻を着、大きな打刀を前に垂らして差し、白柄の長刀を杖にして、評議の庭に進み出て
- `譬えをよそから引くまでもない
- `まず我が寺の本願・天武天皇がまだ皇太子でいらしたとき、大友皇子の襲撃を受けられて吉野の奥にお逃げになったが、大和国宇多郡を過ぎられるときには、その勢はわずかに十七騎しかおらず、それでも伊賀・伊勢に越えられ、美濃と尾張の軍勢をもって大友皇子を滅ぼし、ついに即位されたのだ
- `逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくる
- `人はこれを憐れむ
- `と、いにしえの書にある
- `他は知らん、だが我が門徒だけは、今夜六波羅に押し寄せて、討ち死にしようではないか
- `と議論した
- `円満院大輔・源覚が進み出て
- `議論は枝葉が多い
- `夜が更けるぞ、急げ、出発だ
- `と言った
- `まず六波羅の背後に向かう老僧たちの大将軍には、源三位入道・源頼政、乗円房阿闍梨・慶秀、律成房阿闍梨・日胤、帥法印・禅智、禅智の弟子・義宝、禅永を先鋒として総勢一千人、手に手に松明を持って如意が峰へ向かった
- `正面の大将軍には、伊豆守・源仲綱、次男・源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子・蔵人太郎仲光、大衆からは、円満院大輔・源覚、律成房・伊賀公、法輪院・鬼佐渡、成喜院・荒土佐
- `彼らは剛力で、弓矢や刀剣を持てば、どんな鬼にも神にも立ち向かう一人当千の兵である
- `三井寺の中院・平等院からは、因幡竪者・荒大夫、角六郎房、島阿闍梨、筒井法師、郷阿闍梨、悪少納言、北院からは、金光院・六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後などがいた
- `松井肥後、証南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乗円房阿闍梨・慶秀の住僧六十人の内からは、加賀光乗、刑部俊秀、法師たちでは、一来法師に勝る者はいなかった
- `堂衆からは、筒井浄妙、明秀、小蔵尊月、尊永、慈慶、楽住、鉄拳玄永、武士からは、渡辺省、播磨次郎、渡辺授、薩摩兵衛、長七唱、滝口・渡辺競、与馬允、続源太、清、勧を先鋒として総勢一千五百余人が三井寺を発った
- `以仁王が三井寺にお入りになってから、大小の関を堀り切り、盾で垣根を作り、逆茂木を設けたので、堀に橋を渡し、逆茂木を取り除いたりしているうちに時は移り、関所へ通じる道の鶏が鳴きはじめた
- `仲綱殿は
- `ここで鷄が鳴いたのでは、六波羅に到着するのは白昼になるな、どうしたものか
- `と言われると、円満院大輔・源覚がまたさっきのように進み出て
- `昔、秦の昭王が孟嘗君を召し捕らえたが、后の手助けによって、兵三千人を連れて逃がれ、ほどなく函谷関に着いた
- `異国の習慣として、鶏が鳴かない限り関の戸を開けないことになっている
- `孟嘗君の三千人の食客の中に、田甲といふ兵がいた
- `鶏の鳴き真似が巧かったので
- `鶏鳴
- `とも呼ばれていた
- `その鶏鳴が、高い所に駆け上り、見事な鶏の鳴き真似をしたので、関所へ通じる道の鶏が聞き伝えて皆鳴きはじめた
- `そのとき関守は、鶏の空音にだまされて、関所の戸を開けて通してしまった
- `だから、これも敵の計略で鳴かせているのかもしれない
- `一気に突破しよう
- `と言った
- `そうこうしているうちに、五月の短い夜がほのぼのと明けてきた
- `仲綱殿が
- `夜討だからこそ成功するかもしれないと思っていたが、昼の合戦となってはとても敵うまい
- `呼び戻せ
- `と命じると、正面の勢は松坂から引き返し、背面の勢は如意が峰から引き返した
- `若い大衆や荒法師たちは
- `一如房阿闍梨・真海が長い議論をしていたから夜が明けたんだ
- `その真海を斬れ
- `と、押し寄せて一如房をめった斬りにした
- `防いでいた弟子や住僧らも皆討たれた
- `自らも負傷し、ほうほうのていで六波羅に帰り、この由を訴えたが、六波羅には軍兵が数万騎結集していたので、少しも慌て騒ぐ気配がない
- `その頃、以仁王は
- `延暦寺は心変わりしてしまった
- `興福寺はまだ来ない
- `この三井寺だけで戦うのはとても無理だろう
- `と、同・五月二十三日の明け方に三井寺を出られ、奈良の興福寺へ落ち延びられた
- `以仁王は、蝉折、小枝という漢竹で作られた笛を二挺お持ちだった
- `中でも蝉折は、昔、鳥羽院の時代、宋の帝に砂金を多く献上した際のお返しらしく、一節贈られてきた、生きた蝉のような節のついた笛竹である
- `これほど貴重なものを、たやすく笛にしてしまってよいものか
- `と、三井寺の大進僧正・覚宗に命じ、壇上に立て、七日加持祈祷してから彫らせられた笛である
- `あるとき、中納言・高松実平卿が参ってこの笛を吹かれたとき、普通の笛のように思い忘れて、うっかり膝から下に置かれると、笛が咎めたのか、そのとき蝉が折れてしまった
- `それゆえ
- `蝉折
- `と呼ばれるようになった
- `以仁王は笛が上手であったため、譲り受けられたという
- `しかし、もはやこれまでと思われてか、三井寺金堂の弥勒菩薩に奉納された
- `弥勒菩薩が龍華樹の下で説法をなさるとき、巡り逢われるためかと思しくて、しみじみとする出来事であった
- `そして以仁王はすべての老僧たちに暇を与えられ、三井寺にお留めになった
- `役に立ちそうな若い大衆や荒法師はお供をした
- `頼政殿の一味・渡辺党は、三井寺の大衆を率い、その勢は一千人であったという
- `乗円房阿闍梨・慶秀は鳩の杖にすがり、以仁王の御前に参り、老いた眼から涙をほろほろと流しながら
- `どこまでもお供するつもりでおりましたが、歳はもう八十を過ぎ、歩行さえ思うに任せませんので、代わりに弟子の刑部房・俊秀お連れください
- `この者は、六条河原で討ち死にした相摸国の住人・山内須藤刑部丞俊通が子で、先年の平治の合戦の折には亡き左馬頭・源義朝殿の配下におり、いささか縁があって育てて参りましたので、心の底までよく知っております、どこまででもお連れください
- `と涙をこらえて、そこに残った
- `以仁王も哀れに思われ
- `いつのよしみで、これほどまでしてくれるのか
- `と、涙をお止めになれなかった