現代語訳
- `異国の先例を見るに、燕の丹王子は秦の始皇帝に捕まり監禁されること十二年、あるとき燕丹は涙を流して
- `私は故郷に老いた母がおります
- `母に会いたいので暇をください
- `と嘆いた
- `始皇帝はあざ笑い
- `いいだろう
- `馬に角が生え、烏の頭が白くなるまで待て
- `と言われた
- `燕の丹王子は天を仰ぎ地に伏して
- `どうか馬に角を生やし、烏の頭を白く染めてください
- `もう一度、国へ帰って母に会いたい
- `と祈った
- `かの妙音菩薩は霊山浄土に詣でて不孝の輩を戒め、孔子や顔回は支那・震旦に生まれて忠孝の道を説かれた
- `一切を見通す仏は、孝行の志を憐れまれたので、馬に角を生やさせて宮中に来させ、烏の頭白く染めて庭前の木に棲まわせた
- `始皇帝は白頭の烏・角の馬の異変に驚き、天子の言葉は覆らないと信じていたので、丹王子を許し、本国へ返された
- `しかし、始皇帝は悔しまれた
- `秦国と燕国の境に楚国といふ国があり、大河が流れていた
- `その河に架かる橋を
- `楚国橋
- `という
- `始皇帝は事前に官軍を送り、燕の丹王子が渡ろうとしたときに河中の橋を踏んだら落ちるよう細工しておいたため、渡りきれるはずがなく、河中に落ちてしまった
- `ところが少しも溺れることなく、平地を行くがごとくに対岸に着いた
- `どういうことだ
- `と思ってて後ろを振り向いてみると、おびただしい数の亀が水麺に浮いて甲羅を並べ、その上を歩かせたのだった
- `これも孝行の志を仏が憐れまれたからである
- `燕の丹王子は恨みを抱き、始皇帝には従わなかった
- `始皇帝は官軍を遣わして燕の丹王子を滅ぼそうとした
- `燕の丹王子はひどく恐れおののいて、荊軻という兵を味方に引き入れて大臣にした
- `荊軻はまた田光先生という武人を誘うと、先生は
- `燕の丹王子は私の身が若く元気だった頃を知っておられるがゆえに、こうして頼みに来られたのか
- `麒麟は千里を飛ぶが、老いては駄馬にも劣る
- `この身は年老いてとてもご期待に添えない
- `代わりに良い武人を紹介して進ぜよう
- `と言って退出しようとすると、荊軻は袂を引き
- `決してこのことを洩らさぬよう
- `と言うと
- `人間の恥の中で人に疑われる以上のことはない
- `と言うと、荊軻の屋敷の門前にあった李の木に頭をぶつけ、叩き割って死んでしまった
- `また樊於期という武人がいた
- `彼は秦国の者であったが、始皇帝によって父、伯叔、兄弟を殺されて、燕国に逃げ隠れていた
- `始皇帝は国中に宣旨を下し
- `燕の地図並びに樊於期の首を持って参った者には五百斤の金を与える
- `と触れを出した
- `荊軻は樊於期のもとを訪れて
- `おれは、おまえの首に五百斤の金が懸けられたと聞いた
- `おまえの首をおれにくれ、取って始皇帝に献上する
- `喜んで確かめておられるときに剣を抜いて胸を刺すのはたやすいだろう
- `と言うと、樊於期は天を仰ぎ、躍り上がり、大きな息を吐いて
- `おれは始皇帝によって父、伯叔、兄弟を殺されて、昼夜それを思うたび、怨みは骨髄に染みわたる
- `本当に始皇帝を討てるのなら、おれの首を差し出すのなら、ごみを出すよりたやすい
- `と言って自ら首を刎ねて死んでしまった
- `また、秦舞陽という武人がいた
- `彼も秦国の者であったが、十三歳のときに仇を討ち、燕国に逃げ隠れていた
- `彼が微笑んで接するときは赤ん坊も抱かれ、怒りを表に出せば大の男も気絶した
- `荊軻は彼を説得して、秦の都の案内人として連れて行くことになり、ある山里に宿をとった夜、その近くの里から漂う管絃の音色を聞き、その調べをもとに宿願を占ってみると、敵は水、味方は火と出た
- `しかし帰るわけにもいかず、やがて秦の都・咸陽宮に到着した
- `そして、燕の地図と樊於期の首を持って参上した由を奏聞した
- `始皇帝は臣下に受け取らせようとされた
- `人伝てにお渡しするつもりは毛頭ありません
- `じかに献上します
- `と奏聞すると
- `ならば
- `と宴の座を設え、燕の使者を招かれた
- `咸陽宮は都の周囲が一万八千三百八十里もある
- `長生殿があり、不老門があり、金で太陽を作り、銀で月を作ってある
- `真珠の沙、瑠璃の沙、金の沙が敷き詰められている
- `四方には鉄の築地を高さ四十丈に築き上げて、宮殿の上にも同じように鉄の網が張られている
- `これは冥途の使者を入れないためである
- `秋に田へ舞い降りた雁が春に渡って帰るときにも飛ぶに障りがあってはいけないと、築地には
- `雁門
- `と名づけた鉄の門が作られ、そこを開けて通された
- `その中に阿房殿という、始皇帝が常に赴かれ、政務を執られた宮殿があった
- `東西へ九町、南北へ五町、大床の下には五丈の旗鉾を立ててもまだ届かないほどであった
- `屋根は瑠璃の瓦を葺き、床は金銀をで磨きあげてあった
- `荊軻は燕の地図を持ち、秦舞陽は樊於期の首を持って珠玉の階段を昇っていったが、あまりに内裏の豪奢なのを見た秦舞陽がわなわなと震え出すと、臣下はこれを怪しんで
- `舞陽は謀反の心あり
- `前科者を君主の近くには置かず、君子は前科者には近づかない
- `近づくことは死を軽んじることを意味する
- `と言った
- `荊軻は振り返って
- `舞陽はいささかも謀反の心などない
- `田舎の賤しさに慣れていて、皇居に不慣れであるがゆえにうろたえているだけだ
- `と言うと、それから臣下はみな静かになった
- `そして王に近づいて、燕国の地図と樊於期の首を確認される際、地図の入った櫃の底に氷のように光る剣があるのを、始皇帝が発見され、すぐさま逃げようとされたとき、荊軻は御袖をむずと掴み、剣を胸に差し当てた
- `もはやこれまでと見えた
- `数万の軍兵は庭に袖を連ねていても救いようがなかった
- `ただ帝が逆臣に殺害されようとするのを指をくわえて見ているしかなかった
- `始皇帝は
- `我にしばし猶予を与えよ
- `后の琴の音をもう一度だけ聴きたい
- `と言われると、荊軻はしばし襲おうとはしなかった
- `始皇帝は三千人の后をお持ちであった
- `その中に花陽夫人という無双の琴の上手がいらした
- `およそこの后の琴の音を聞けば、猛々しい武者の心も和らぎ、飛ぶ鳥も落ち、草木も揺れるほどであった
- `ましてや今生の聴き納めの一曲にと泣く泣く弾かれたためか、実に素晴らしかった
- `荊軻も首をうなだれ、耳をそばだてて、謀略を企てる心も緩んでしまった
- `そのとき后は改めてもう一曲を奏でた
- `七尺の屏風は高くとも、思い切ればどうして越えられぬことがありましょう
- `一筋の薄物が強くても、引けばどうして切れないことがありましょう
- `と弾かれた
- `しかし荊軻はこの意味がわからず、始皇帝は知っていたので、御袖を引き裂き、七尺の屏風を躍り越え、銅の柱の陰へ逃げ隠れられた