一〇七六文覚被流
現代語訳
- `後白河法皇の御前には妙音院太政大臣・藤原師長殿が琵琶を奏でられ、見事な朗詠をなさっていた
- `按察使大納言資方卿は拍子をとって風俗・催馬楽を歌われた
- `子息・右馬頭資時と四位侍従・楊梅盛定が和琴をかき鳴らして今様をとりどりに歌われた
- `御所のそこかしこまで賑やかになり、盛り上がってきたので、法皇も付歌をされた
- `ところが文覚がわめきながら現れたので、調子が狂い、拍子もすっかり乱れてしまった
- `何者だ
- `狼藉である
- `素っ首突け
- `と法皇が命じられたほどである
- `院中の血気盛んな男たちが我先にと進み出る中に、判官・平資行という者が進み出て
- `何を言っているんだ、院の仰せであるぞ、出て行け
- `と言うと、文覚は
- `高雄の神護寺へ荘園を一箇所寄進くださらぬうちは立ち去るつもりはない
- `と言って引き下がらなかった
- `近づいて素っ首を突こうとすれば、勧進帳を取り出し、資行判官の烏帽子をぱたっと叩いて打ち落とし、拳を強く握り、胸をどんと突いて仰向けに突き倒した
- `資行判官は烏帽子を打ち落されて、おめおめと大床の上に逃げ上った
- `その後、文覚は懐から馬の尾で柄を巻いた冷たく光る刀を抜き持って、寄せ来る者を突こうと待ち構えた
- `左手には勧進帳、右手には刀を持って駆け回っているので、思いがけない出来事でもあって、左右の手に刀を持ったように見えた
- `公卿も殿上人も
- `なんだこれは
- `と騒がれて、御遊びもすっかり台無しになってしまった
- `院中の騒動は尋常ではなかった
- `ここに信濃国の住人・安藤右宗という現職の武者所がいて
- `何事だ
- `と、太刀を抜いて駆け込んできた
- `文覚は嬉々として飛びかかってくる
- `安藤武者は、ここで斬ってはまずいと思ってか、太刀の峰を握り直し、文覚の刀を持った方の腕をしたたかに打った
- `打たれて少し怯んだところに
- `やったぞ、おう
- `と、太刀を捨てて組みついた
- `組まれながら文覚は安藤武者の右の腕を突く
- `突かれながらも締めつけた
- `互いに劣らぬ豪腕で、上になり下になり転がり合うところを、上下の者たちが寄ってたかって、あがく文覚を痛めつけた
- `そして門外へ引きずり出して庁の役人に引き渡した
- `役人は渡されて引っ張った
- `文覚は引っ張られて、立ちながら御所の方を睨みつけ、大声を張り上げて
- `寄進ひとつなさらず、さらに文覚をこれほどひどい目に会わせるなら、いまに思い知らせてさしあげましょう
- `この世は燃える家のごとし
- `王宮とて、どうしてその難を逃れられようか
- `たとえ前世における十善の功徳によって就かれた帝位であろうと、黄泉の旅に出た後は牛頭・馬頭の責め苦からは逃れられますまい
- `と、躍り上がってそう言った
- `この法師は奇怪な奴だ
- `牢屋へ閉じ込めておけ
- `と拘禁された
- `資行判官は烏帽子を打ち落とされた恥ずかしさにしばらくは出仕もしなかった
- `安藤武者は文覚を組み合った褒美として、一臈を飛び越えて右馬允に任ぜられた
- `その頃、鳥羽天皇皇后美福門院・得子殿が崩御して大赦があり、文覚はほどなく放免となった
- `しばらくはどこかで修行していればいいものを、また勧進帳を携えてあちこち施主を勧誘して歩いていたが、今度はただの勧進ではなく
- `哀しいことに、今の世の中はすっかり乱れて、君主も家臣も共に滅び失せようとしている
- `など、このように恐ろしいことを言いふらして歩いていたので
- `この法師は都に置いておくわけにはいかん、流罪にせよ
- `と、伊豆国に流された
- `源三位入道の嫡子・伊豆守仲綱殿が当時の国守であったが、その命により東海道から船で下し、伊豆国へ連行する際に検非違使庁の小役人を二、三人随行させた
- `その者たちが
- `庁の小役人の慣習として、こういうときには手心も加えられるものでして
- `ところで、聖の御坊は知り合いはありませんか
- `遠国へ流されなさったのですから、土産や食い物などを求められてはどうですか
- `と言うと、文覚は
- `そのようなことを頼めるような知り合いはない
- `だが、東山の辺にはいる、では手紙を書いて送ろう
- `と言うと、粗末な紙を探してきて与えた
- `文覚は大いに怒って
- `こんな紙にものが書けるか
- `と言って投げ返した
- `それでは
- `と、厚紙を探してきて与えた
- `文覚は笑って
- `この法師はものが書けないのだ
- `おまえら書け
- `と言って書かせ
- `この文覚は、高雄の神護寺造立供養のために勧進帳を携え、勧進帳を携えてあちこち施主を勧誘して歩いておりましたが、後白河法皇の世となって、寄進をいただくこともできないばかりか、伊豆国へ流罪にされてしまいました
- `遠路ですから土産や食糧なども必要です
- `この使いにお与えください
- `と言う
- `言うままに書いて
- `さて、宛先はどなたへ
- `清水の観音様へ
- `と書け
- `と言う
- `さては検非違使庁の役人をだましたな
- `と言うと
- `そうは言っても、文覚は観音様を深く信仰している
- `それがだめなら、誰にお願いをしろというのだ
- `と言った
- `そうして伊勢国の阿濃津から舟にで下ってくると、遠江国の天龍灘でにわかに大風が吹き、大波が立って、この舟をひっくり返そうとした
- `水夫や船頭たちは、なんとかして助かろうとしたが、どうにもならないと観念したようで、あるい者は観音の名号を唱え、ある者は今際の南無阿弥陀仏を唱えはじめた
- `ところが文覚は少しも騒がず、舟底に高いびきをかいて寝転がっていた
- `そしてまさに転覆すると思われた瞬間、がばっと起き上がり、船の舳に立って、舳先の向こうを睨みつけ、大声を張り上げて
- `龍王はいるか、龍王はいるか
- `と叫んだ
- `どういうつもりで、これほどまでに大願を発した聖が乗った舟を沈めようとするのか
- `いま天罰を受けるぞ、龍神どもめ
- `と言った
- `そのためか、波風はほどなく静まって、伊豆国に無事着いた
- `文覚は京を出た日からずっと心の内に祈誓することがあった
- `おは都に帰って、高雄の神護寺を造立供養できるなら、きっと死ぬことはない
- `この願いを達せなければ、道半ばで死ぬだろう
- `と、京から伊豆に着くまで、順風でなく浦伝い島伝いで渡った三十一日間、ずっと断食していたが、気力は少しも衰えず、舟底で修行をしていたのだった
- `まったく只者とは思えない出来事が多かった