一三七九五節沙汰
現代語訳
- `陣内は物音ひとつしない
- `人を偵察に行かせたところ、敵の忘れた鎧を取ってくる者もあれば、平家の捨てていった大幕を取ってくる者もあった
- `陣内には蠅一匹飛んでおりません
- `と言った
- `頼朝殿は急いで馬から下り、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、都の方を伏し拝み
- `これはまったく私の功績ではありません
- `ひとえに八幡大菩薩の御計らいです
- `と言われた
- `すぐに討ち取る土地だからと、駿河国を一条次郎忠頼、遠江国を安田三郎義定に預けられた
- `平家をすぐに追撃するべきであったが、やはり背後も不安なので駿河国から相摸国に戻られた
- `東海道の宿々の遊君・遊女たちは
- `なんと情けない
- `敵軍を姿に怯え、逃げることさえみっともないのに、平家の人々は鳥の音を聞いて逃げてしまった
- `と笑った
- `そういうわけで、落書きなどが多くあった
- `都の大将軍を
- `宗盛
- `といい、討手の大将を
- `権亮
- `というので
- `平家
- `を
- `ひらや
- `と読み替え
- `ひらやなるむねもりはどれほどさわぐだろう、柱と頼むすけを落として
- `富士川の流れの岩越す水よりも、早くも落ちる伊勢平氏かな
- `また、上総守・伊藤忠清が、富士川に鎧を捨てたことを詠んだ
- `富士川に鎧は捨てた墨染めの、衣ただきよ後の世のため
- `ただきよはにげの馬に乗っていた、上総しりがいかけて甲斐なし
- `同・十一月八日、権亮少将・維盛は福原へ帰られた
- `清盛入道たいへん怒って
- `維盛を鬼界が島へ流せ
- `忠清を死罪にしろ
- `と言われた
- `これによって、同・九日、平家の侍たちが老いも若きも寄り合って
- `忠清の死罪についてどうしたらよいものか
- `と評議した
- `主馬判官・平盛国が進み出て
- `日頃から忠清を臆病者だとは思っておりません
- `あれはたしか、彼が十六歳のときでした
- `鳥羽殿の宝蔵に五畿内一の強盗が二人逃げこもったとき、取り押さえようとする者がだれもいなかったのですが、忠清ただ一人、白昼に築地を乗り越えて、一人を討ち取り、一人を取り押さえて名を後代に残したのです
- `今回のことは特別な事情があったものと思われます
- `こういうことがあるので、兵乱にはよくよく用心すべきです
- `と言った
- `同・十日、除目が行われて、権亮少将維盛殿が右近衛中将に昇進された
- `さて、今回討手の大将軍とはいえども、たいした手柄を立てたわけでもない
- `これは何の褒美なのか
- `と人々はささやき合われた
- `昔、平将軍貞盛と俵藤太・藤原秀郷が平将門追討のために東国へ赴いたが、朝敵・将門が手強くなかなか敗れなかったので、公卿らは評議し、宇治民部卿・藤原忠文と清原重藤が軍監という官職を賜って向かうことになり、駿河国清見が関に宿を取った夜、重藤が広々とした海上を眺めて
- ``漁舟の火影寒くして波を焼き
- ``駅路の鈴の音が夜山を過ぎる
- `という漢詩を高らかにうそぶくと、忠文は優雅に感じて涙を流された
- `そして、貞盛と秀郷は将門をついに討ち取った
- `将門の首を持って上る途中、駿河国清見が関で行き合った
- `そこから前陣・後陣それぞれの大将軍が揃って上洛した
- `貞盛と秀郷に褒美が与えられた
- `そして忠文と重藤にも褒美を出すべきかと公卿が評議していたとき、九条右丞相・藤原師輔公が
- `今回坂東へ追討軍を出したが、将門がしぶとく抵抗したので、この二人が勅諚を受けて関東へ赴くと、朝敵が滅んだ
- `ゆえに忠文と重藤にも褒美を与えるべきと考える
- `と言われたが、そのときの執柄であった小野宮・藤原実頼殿は
- `疑わしいことをしてはならない
- `と礼記の文にもあるので
- `と、ついに褒美を与えられなかった
- `忠文はこれを恨み
- `実頼殿の子孫を奴僕にしてやる
- `九条師輔殿の子孫には末代までも守護神となろう
- `と誓いながら、ついに餓え死にして果てた
- `それゆえ、九条殿の子孫は立派に繁栄されたが、実頼殿の子孫にはたいした人もおらず、今は絶え果ててしまったという
- `清盛入道の四男・頭中将重衡殿が左近衛中将に昇進された
- `また同・十一月十三日、福原に内裏が造られて安徳天皇が都をお遷りになった
- `大嘗会が行われるべきであったが、大嘗会は十月の末、賀茂川にて御禊を行われた
- `内裏の北の野に斎場を設けて神服・神具を調えた
- `大極殿の前、龍尾道の壇下に廻龍殿を建てて、御湯を召す
- `龍尾道の壇の並びに大嘗宮を造って神膳を供えた
- `宴があった
- `管弦のお遊びがあった
- `大極殿では大礼があった
- `清暑堂で御神楽があった
- `豊楽院で宴があった
- `しかし、この福原の新都には大極殿もないので大礼を行うこともできない
- `清暑堂もないので御神楽を演奏する場所もない
- `豊楽院もないので宴も行われない
- `今年はただ新嘗会と五節だけは催そうと公卿らは評議し、やはり新嘗祭は京の都の神祇官で行われた
- `五節は天武天皇の時代、吉野の離宮において、月の白く風の激しかった夜、御心を澄まして琴を弾かれると、天女が天下り、五度袖を翻した
- `これが五節の始まりである