一四八〇都還
現代語訳
- `今度の遷都は君主も臣下もたいへん嘆かれた
- `延暦寺や奈良・興福寺をはじめ、諸寺・諸社に至るまでよくないことを訴えたが、あれほど傍若無人であった清盛入道も
- `ならば京に還都する
- `と、同・十二月二日、突如還都した
- `新都・福原は、北は山並みが続いて高く、南は海が近く低くなっている
- `波の音はいつも騒がしく、潮風の烈しい地であった
- `そのせいか、高倉上皇はお体のすぐれないことが多かったので、急いで福原をお出になった
- `建礼門院殿、安徳天皇、後白河法皇も京の都へ戻られた
- `摂政・藤原基通殿をはじめ、太政大臣以下の公卿や殿上人も、我も我もと上られた
- `平家でも清盛入道をはじめ、一門の人々が皆上られた
- `あれほどいやなことばかりだった福原に、誰も片時すら残りたがらなかったので、我先にと上られたのだった
- `高倉上皇と建礼門院徳子は六波羅にある、教盛殿の館・池殿へお入りになった
- `安徳天皇は五条の内裏であったという
- `去る六月から京の家屋を少し壊して、形はなんとか屋敷らしくなったが、今また物狂わしく突如還都となったので、なんの指示もできないまま、みな福原に捨てて上られた
- `戻ったところで寝場所もなく、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の付近に身を寄せ、御堂の廻廊や社の宝殿などに、位の高い人でも宿を借りておられた
- `そもそも今回の都遷の真意は何かと言えば、京の都は延暦寺や、奈良・興福寺が近くて、少しのことでも、やれ
- `日吉神社の神輿だ
- `春日神社の神木だ
- `と騒動が起こるのを避けるためであった
- `新都・福原は山や川に隔てられ、距離も遠いので、そうしたことも簡単には起こせまいと、清盛入道が考えた結果であったという
- `同・十二月二十三日、近江源氏が反乱を起こし、それを鎮圧しようと、大将軍には左兵衛督・平知盛、薩摩守・平忠度、総勢二万余騎が、近江国へ発向した
- `山本義経、柏木義兼、錦織義高などという落ちぶれ源氏どもを討伐し、それからすぐ美濃・尾張へと越えられた