一一九二洲胯合戦
現代語訳
- `養和元年閏二月二十日、五条大納言・藤原国綱卿も亡くなった
- `清盛入道とあれほど懇意にされていたが、同じ日に病に臥され、同じき月に亡くなるというのも不思議であった
- `同・二十二日、前右大将宗盛殿が院参し、院の御所を法性寺殿へお移しするよう奏聞した
- `その御所は去る応保元年四月十五日に造られて、新日吉神社、新熊野権現も近くに招き、山水から木立に至るまで、後白河法皇の思いのままに造られたものであったが、平家の悪行によってこの二・三年は後白河法皇もお出かけにならなかった
- `御所の壊れた箇所を修理して、お出かけくださるよう奏聞したが、後白河法皇は
- `なんの問題もない
- `急げ急げ
- `と御幸した
- `故・建春門院のおられた方をご覧になれば
- `岸の松も水際の桜も、年をとったものだ
- `と思われ、木が高くなっているのをご覧になっても、太掖池に咲く芙蓉や未央宮の柳にお向かいになっても、涙が止まらない
- `唐の玄宗皇帝が、南内・西宮の昔を偲んだことを、今思い出されたのだった
- `三月一日、奈良・興福寺の僧綱らが皆許されて復職した
- `末寺や荘園も元のままで返すようにと仰せが下された
- `同・三日、東大寺では大仏殿の事始めがあった
- `事始めの奉行には蔵人左少弁・藤原行隆殿が務められた
- `行隆殿は、先年、石清水八幡宮へ参詣し、通夜をされたときの夢に、御宝殿の戸を押し開き、鬢を結った天童が現れ
- `私は大菩薩の御使いである
- `大仏殿事始めの奉行を務めるときはこれを持つように
- `と、笏を賜る、と見て、目を覚まし、周囲を見回すと、現実に枕元にあった
- `なんと不思議な、今どういうわけで大仏殿の事始めの奉行など務めるのだろうか
- `と思われたが、笏を懐に入れて屋敷へ帰り、家の奥に安置しておいたところ、平家の悪行によって奈良が炎上し、多くの役人の中から行隆殿が選ばれ、大仏殿の事始めの奉行を務められることになったというからめでたい宿縁である
- `同・十日、美濃国の目代が早馬を飛ばして都に入り、源氏は既に尾張国まで攻め上り、道を塞いで人をまったく通さないでいることを伝えると、平家はすぐに討手を差し向けられた
- `大将軍には、左兵衛督・平知盛、左中将・平清経、同・少将・平有盛、丹後侍従・平忠房、侍大将には、越中次郎兵衛尉・平盛嗣、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清を先鋒として、総勢三万余騎で東国へ発向した
- `清盛入道が亡くなってまだ五十日にも満たないのに、これほど乱れた世とはいいながら、あさましいことであった
- `源氏方には、十郎蔵人・源行家、頼朝殿の弟・卿公義円、総勢六千余騎が尾張川を隔て、源平は両岸に布陣した
- `同・十六日の夜に入り、源氏の六千余騎が渡河し、平家三万余騎の中に雄叫びを上げて突入した
- `翌・十七日は寅の刻より矢合わせをし、夜が明けるまで合戦は続いたが、平家の陣は少しも騒がない
- `敵は渡河したから馬や物具がみな濡れている
- `それを目印にして討て
- `と源氏軍を包囲すると、我先にとばかりに攻めてきた
- `兵衛佐の弟・卿公義円は深入りしすぎて討たれてしまった
- `十郎蔵人・源行家は激しく戦い、家子・郎等まで多く射られてどうにもならず、川の東へ退却した
- `平家はすぐに川を越え、落ちゆく源氏を馳せ弓しながら追撃するので、源氏もそこかしこで反撃はしたが、多勢に無勢で勝ち目なく見えた
- `船着き場を背にしてはならない
- `というのに、今度の源氏の作戦は愚かだった
- `と人は言った
- `十郎蔵人・源行家は、退却しながら三河国矢矧川の橋を外し、盾で垣根を作って待ち構えた
- `平家がすぐに追撃してきたので、その場所もついに攻め落とされた
- `平家がなおも追撃を続けると、三河・遠江の勢が駆けつけて来るはずだったのに、大将軍左兵衛督である知盛殿が急病とのことで、三河国から京へ帰ってしまった
- `今回もわずかに一陣を撃破したが、残党を攻めなかったので、戦果はなかったに等しい
- `平家では、一昨年、重盛殿が亡くなった
- `今年はまた、清盛入道が亡くなった
- `運命が終わりつつあることが明らかなので、長年の恩を受けた者たち以外に付き従う者はなくなっていた
- `東国では草も木も、皆源氏になびいていた