五九九木曾願書
現代語訳
- `義仲殿は
- `平家は大勢だから、会戦にしたいと思っているはずだ
- `会戦というのは、勢の多少によるところが大きいから、軍の勢いに呑まれたら勝ち目はない
- `まず計略として白旗三十旒を先立て、黒坂の上に立てると、平家はこれを見て
- `ああ、源氏の先陣が攻めてきた
- `敵は地形に詳しく、こちらは無案内だ
- `この山は四方が大岩だから、背後からは回っては来るまい
- `しばらく馬から下りて味方の勢を待とう
- `と砥浪山中で馬から下りるだろう
- `そのとき、おれがしばらく適当に応戦ながら日が暮れるのを待って、夜に入ったら平家の大軍を背後の倶利迦羅が谷に追い落とす
- `と、まず三十旒の白旗を黒坂の上に立てると、案の定、平家はこれを見て
- `たいへんだ、源氏の大軍が攻めてきた
- `包囲されては勝ち目はない
- `敵は地形に詳しく、こちらは無案内だ
- `この山は四方が大岩だから、背後からは回っては来るまい
- `ここは馬にやる草もあるし、水の便もよさそうだ
- `しばらく馬から下りて馬を休めよう
- `と、砥浪山の山中にある猿の馬場というところで兵を止めた
- `義仲殿は羽丹生に陣取って、四方を厳しく見渡すと、夏山の峰の緑の木の間から、朱色の玉垣がかすかに見えて、片削ぎ造りの社殿があった
- `前には鳥居が立っている
- `義仲殿は土地に詳しい者を呼び
- `あれは何というところだ
- `何の神を祭っているのか
- `と言われると
- `あれは八幡神社でございます
- `ここも八幡神社の御領地でございます
- `と言う
- `義仲殿はとても喜び、書記として連れてきていた大夫房覚明を呼んで
- `おれはなんとなくここに寄せてきたつもりだったが、幸いにも新八幡の御宝殿に近づいて合戦を遂げようとしている
- `そうであるからには、後代のため、また今回の祈祷のために、願書を一筆執って奉納しようと思うのだがどうだ
- `と言われると、覚明は
- `よいことと存じます
- `と急いで馬から飛び下り、木曽殿の御前にかしこまった
- `覚明のその日の姿は、褐の直垂に黒糸威の鎧を着、黒漆の太刀を佩き、二十四筋差した黒保呂の矢を背負い、塗籠籐の弓脇に挟み、兜を脱いで高紐に掛け、箙の頬立から小硯と畳紙を取り出し、願書をしたためた
- `実に見事な、文武両道の達人と見えた
- `この覚明はもともとは儒家の者であった
- `蔵人道広といって勧学院に属していた
- `出家して
- `最乗坊信救
- `と名乗った
- `普段は奈良・興福寺へも通っていた
- `先年、以仁王が三井寺に入られたとき、延暦寺や興福寺へ牒状を送られたが、興福寺の宗徒らが何を思ってか、その返牒をこの信救に書かせた
- `清盛入道清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥だ
- `と書いた
- `清盛入道はおおいに怒って
- `どういうつもりでその信救めが、このわしほどの者を平氏の糠糟だの、武家の塵芥だのと書いているのか、ふざけた奴だ
- `急いでその法師をとっ捕まえて死罪にしてしまえ
- `と言われたので、そのため奈良にはいられなくなり、北国へ落ち延び、義仲殿の書記として
- `大夫坊覚明
- `と言われるようになった
- `その願書には
- ``帰命頂礼、八幡大菩薩は日本朝廷の主君、天皇家累代の先祖であります
- ``皇位を守るため、人民をの幸福を守るため、仮のお姿を現し、八幡三所の扉をお開きになりました
- ``ここ数年以来、平相国清盛という者がおります
- ``日本中を支配して、万民を苦しめ悩ませてきました
- ``これはもはや仏法の怨、王法の敵です
- ``私はいやしくも武門に生まれて、ささやかながら家業を継いでおります
- ``平家の暴悪を考えますと、冷静に思慮を巡らすこともできません
- ``運を天に任せて、身を国家に捧げます
- ``試みに義兵を組織し、凶賊を退けようと思います
- ``しかし、両家の陣を合わせて合戦しながら、兵たちの心はばらばらで統率ができていないことを危惧しておりましたところ、いま合戦の旗を揚げるまさにこのとき、思いがけず八幡三所の社殿を拝むことができました
- ``我々の心を感じ取ってくださったことが明白となりました
- ``凶徒を誅戮できることは疑いのないところです
- ``歓喜に涙がこぼれ、神仏信仰が肝に染みます
- ``曽祖父・前陸奥守義家朝臣は、その身を八幡大菩薩の氏子となり、名を八幡太郎と名乗って以来、その一門たる者に帰依しない者はおりません
- ``私は義家朝臣の子孫として、長年信仰を寄せてまいりました
- ``今この大事業を起こすことは、たとえば幼児が貝をで大海の水を測り、かまきりが斧を怒らせて戦車に立ち向かうようなものです
- ``とはいえ国のため、君主のために、これを起こします
- ``決して我が身のため、家門のために起こすのではありません
- ``この私の志を感じてくださるのは天におわす神です
- ``頼もしく、喜ばしいことです
- ``伏して願わくは、来世・現世の威光を加え、霊神の力を合わせて勝利を一瞬に決し、怨敵を四方へ退けてください
- ``そしてもしも、我が祈りが神仏の御心に添い、神の加護を与えてくださるならば、何かひとつめでたい印をお見せください
- ``寿永二年五月十一日
- ``源義仲敬って申す
- `と書いて、自分をはじめ十三騎の上差しの鏑矢を抜き、願書に添えて、大菩薩の御宝殿に奉納した
- `頼もしくも八幡大菩薩が二心のない真実の志を遥か遠くからご覧になったのか、雲の中から山鳩が三羽飛来し、源氏の白旗の上で舞い翻った
- `昔、神功皇后が新羅を攻められた折、味方の軍は弱く、異国の軍が強くて、もはやこれまでかと思われたとき、皇后が天に祈誓されると、霊鳩が三羽飛来して味方の盾の面に現れ、異国の軍は敗れてしまった
- `また、彼らの先祖・源頼義朝臣が、安倍貞任・宗任を攻められた折、味方の軍は弱く、凶賊の軍が強くて、もはやこれまでかと思われたとき、頼義朝臣が敵の陣に向かって
- `これは我らの火ではない
- `神火である
- `と言って火を放った
- `風はたちまち夷賊に向かって吹き覆い、厨川の城は焼け落ちてしまった
- `その後、合戦に敗れ、貞任・宗任は滅んだのである
- `義仲殿はこのような先例を思い出され、急いで馬から下りると、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、今霊鳩を拝まれたその心こそ頼もしいものであった