六一〇〇倶利迦羅落
現代語訳
- `さて、源平両軍が対陣した
- `両陣の距離はわずか三町ほどまで接近した
- `源氏も進まず、平家も進まず
- `少しして、源氏の方から十五騎の精兵を盾の前面に進ませ、十五騎が上差しの鏑矢を一斉に平家の陣へと射込んだ
- `平家も十五騎出して十五筋の鏑矢を射返す
- `源氏が三十騎出して三十筋の鏑矢を射させれば、平家も三十騎出して三十筋の鏑矢を射返させる
- `源氏が五十騎出せば五十騎出し、百騎出せば百騎出す
- `両方百騎ずつ陣の前面に進ませ、互いに勝負しようとはやるが、源氏方が制してわざと勝負をさせない
- `このようにあしらいながら、日が暮れるのを待ち、夜に入って平家の軍勢を背後の倶利迦羅が谷へ追い落そうと企んでいるなどとは平家は夢にも思わず、共にあしらいつつ、日が暮れるのを待っていた
- `さて、南北から回り込んだ背後の勢一万余騎は、倶利迦羅の御堂の周辺で合流すると、箙の頬立を叩き、鬨の声をどっと上げた
- `おのおのが後ろを振り返ると白旗が雲のごとくになびいている
- `この山は四方は岩山だから、まさか背後へは回ってくるまいと思っていたのに、どういうことだ
- `と騒がれた
- `そして、正面から義仲殿の一万余騎が鬨の声を合わせる
- `砥浪山の裾、松長の柳原、茱萸の木林に潜んでいた伏兵一万余騎、日宮林に控えていた今井四郎兼平の六千余騎も同じく鬨の声を合わせた
- `前後四万騎の雄叫びに、山も川も一度に崩れるかのように聞こえた
- `しだいに暗くなり、前後から敵が攻めてくる
- `卑怯だ
- `退却、退却だ
- `と言う者も多かったが、大軍が崩れはじめると、簡単に立て直すことは難しく、平家の大軍は背後の倶利迦羅が谷へ我先へと落ちていった
- `しかし、先に落ちていった者の姿が見えないので
- `この谷の底にも道があるに違いない
- `と、親が落ちれば子も落ちて、兄が落ちれせば弟も続く、主が落ちれば家子・郎等も続いた
- `馬には人が、人には馬が、落ち重なり落ち重なり、あれほど深い谷ひとつを平家の勢七万余騎で埋め尽くした
- `岩々は血の泉を流し、死屍累々の丘をなした
- `それゆえこの谷の辺りには、今も矢の穴や刀傷が残っているという
- `平家の味方に最も頼りにされていた上総大夫判官・伊藤忠綱、飛騨大夫判官・伊藤景高、河内判官秀国も、この谷に埋もれて死んでいった
- `また備中国の住人・瀬尾太郎兼康は名高い兵であったが、運が尽きたのか、加賀国の住人・蔵光次郎成澄の手にかかって生け捕りされた
- `また越前国火打城で寝返った平泉寺の長吏・斎明威儀師も捕らわれて出てきた
- `義仲殿は
- `その法師はあまりにも憎いから、最初に斬れ
- `と殺害を命じられた
- `大将軍・平維盛、通盛はかろうじて加賀国へ退却した
- `七万余騎の中からわずかに二千余騎が逃げ延びられた
- `同・五月十二日、奥州の藤原秀衡のもとから、義仲殿に名馬が二頭送られてきた
- `一頭は黒月毛、一頭は連銭葦毛であった
- `すぐこの馬に鏡鞍を置いて、白山神社へ神馬として奉納した
- `義仲殿は
- `もう心配事はない
- `ただひとつ、伯父の十郎蔵人殿の志保山での戦いだけが気がかりだ
- `よし、行ってみよう
- `と四万余騎の中から馬や人を選り、二万余騎で馳せ向かった
- `途中、氷見湊を渡ろうとしたとき、ちょうど潮が満ちて深さがわからなかったので、鞍置き馬十頭ほどを追い入れてみた
- `鞍爪が浸かるくらいで無事に対岸へ渡し着いた
- `義仲殿はこれを見て
- `浅かったぞ、渡ってこい
- `と言うと二万余騎はざっと渡った
- `案の定、十郎蔵人行家殿はさんざんに蹴散らされて退却し、馬を休めていたところ、源氏の新手が二万余騎、平家三万余騎の中に突入し、火が出るほどにもみ合って攻めた
- `大将軍三河守知教殿は討たれた
- `彼は清盛入道の末子である
- `そのほか兵どもが多く討たれた
- `平家そこをも追い落とされて、加賀国へ退却した
- `義仲殿は志保山を越えて、能登国小田中にある、親王の塚の前に陣を敷いた