一一一五山門御幸
現代語訳
- `寿永二年七月二十四日の夜半頃、後白河法皇は按察使大納言資方殿の子息・右馬頭資時だけを連れて密かに御所をお抜けになり、鞍馬へ赴かれた
- `鞍馬の寺僧たちが
- `ここはまだ都に近いので危険です
- `と言うと
- `それでは
- `と、篠の峰や薬王坂などいう険しい山道を越え、横川の解脱谷にある寂場坊へお入りになった
- `大衆が大勢集まり
- `東塔へお入りになるのがよいでしょう
- `と言うので、東塔の南谷にある円融房を御所とした
- `こういうことがあって、衆徒も武士も皆円融房を警護した
- `後白河法皇は院の御所を出て比叡山へ、安徳天皇は皇居を避けて西海へ、摂政藤原基通殿は吉野の奥に行かれたという
- `八条女院をはじめ宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片田舎に着いて逃げ隠れられた
- `平家は落ちていったが、源氏がまだ入ってこなかった
- `そのため京は君主のいない里になってしまった
- `都が始まって以来、このような事態はかつてなかった
- `聖徳太子の未来記に、今日のことがどう書かれているか興味深い
- `さて
- `後白河法皇は比叡山におられる
- `という噂が流れ、馳せ参る人々は次のとおり、当時の入道殿とは前関白・藤原基房殿、当殿とは摂政・藤原基通殿、太政大臣、左右大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位、四位、五位の殿上人など、すべて世に立派な人と認められ、官職や昇進に望みを持ち、財産や官職を持っている人で、参らない者は一人もいなかった
- `円融房には、あまりに人が集ったため、堂上、堂下、門外、門内、隙間もなくあふれていた
- `これは延暦寺の繁栄と明雲座主の名誉であるように見えた
- `同・七月二十八日、後白河法皇は都へお戻りになった
- `木曽義仲軍が五万余騎で護衛する
- `近江源氏・山本冠者義高は白旗を掲げて先陣を勤めた
- `この二十余年ほど見ることのなかった白旗が、今日初めて都へ入る、それは珍しい光景であった
- `さて、十郎蔵人・源行家は宇治橋を渡って都へ入る
- `陸奥新判官・源義康の子・矢田判官代義清は大江山を経て上洛する
- `また摂津国の河内源氏らが合流して同じく都になだれ込む
- `およそ京中には源氏の勢が充ち満ちていた
- `勘解由小路中納言・吉田経房殿と検非違使別当左衛門督・藤原実家殿が院の御所の殿上の簀子に控え、義仲・行家を召した
- `義仲殿は赤地錦の直垂に唐綾威の鎧を着、厳めしい作りの太刀を佩き、二十四筋差した切斑の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟み、これも兜を脱いで高紐に掛けて、かしこまって控えた
- `十郎蔵人・源行家は、紺地の錦の直垂に緋威の鎧を着、黄金作りの太刀を佩き、二十四筋差した大中黒の矢を背負い、塗籠籐の弓脇に挟み、これも兜を脱いで高紐に掛け、かしこまって控えた
- `前内大臣宗盛殿をはじめ、平家の一族を皆追討せよとの宣旨が下された
- `二人は庭でかしこまり承って、各自宿所がない由を奏聞した
- `義仲殿は大膳大夫・平業忠の宿所、六条西洞院を賜った
- `行家殿は仁和寺殿の南殿という萱の御所を賜った
- `後白河法皇は、安徳天皇が外戚の平家に囚われて、西海の波の上を漂われていることをひどくお嘆きになり、安徳天皇並びに三種神器を無事に都へ還し奉るよう西国へ仰せ下されたが、平家は首を縦に振らない
- `高倉上皇の皇子は安徳天皇のほかに三人おられた
- `中でも第二皇子・守貞親王を皇太子にお即けしようと、平家はお連れして西国へ落ちていた
- `第三皇子・惟明親王と第四皇子・尊成親王は都にいらした
- `八月五日、後白河法皇はこの宮たちを呼び寄せられ、まず五歳になられた第三皇子・惟明親王を
- `この子はどうだ
- `と仰せになると、後白河法皇をご覧になってたいへんむずかられたので
- `早く早く
- `とお出しになった
- `その後、四歳になられる第四皇子・尊成親王を
- `この子はどうだ
- `と仰せになると、すぐに後白河法皇の御膝の上に乗られて、とても懐かしげな仕草をなさった
- `法皇は涙を流され
- `こんなに、血縁のないも者が、この老法師を見て、どうして懐かしげに思うだろうか
- `四宮は真の我が孫であられる
- `高倉上皇の幼少の頃と少しも違わない
- `これほど素晴らしい忘れ形見を今まで見たことがなかった
- `と涙をお止めになることができなかった
- `浄土寺におられる後白河法皇の后・二位殿は、当時まだ丹後殿として御前におられたとき
- `ならば皇位をお継ぎになるのはこの宮ということなのでしょうね
- `と言われると、後白河法皇は
- `言うまでもない
- `と仰せになった
- `内々で占いを行ったときも
- `四宮を位に即かせられれば、百代後までも日本国の主となりましょう
- `と結果が出た
- `四宮の母君は七条修理大夫・藤原信隆殿の娘である
- `建礼門院殿が中宮でいらしたときに仕えておられ、高倉天皇がいつも召されているうちに、宮をたくさんお産みになった
- `信隆殿は多くの娘があり、そのうちの誰かを女御か后に立てたいと思われていたが
- `人の家で白い鶏を千羽飼うと、その家から必ず后になる人が出る
- `ということもあると、白い鶏の千羽揃えて飼われたためか、この娘も皇子をたくさんお産みになった
- `信隆殿も内心嬉しくは思われたものの、平家にも気兼ねし、中宮にも遠慮して、あまり表立って何かすることはなかったが、清盛入道の北の方・八条二位殿は
- `いえいえ、気にする必要はありません
- `私が育て参らせて、皇太子にお即けしよう
- `と、乳母をたくさんつけて育てられた
- `四宮というのは八条二位殿の兄・法勝寺執行能円法師の養った方でいらした
- `にもかかわらず、法印は平家に連れられ、宮も女房も京都に置き去りにして西国へ落ち下られたが、法印は西国から人を上洛させ
- `四宮をお連れして、急いで西国へ下られよ
- `と伝えさせたので、北の方はとても喜び、宮を連れて西七条までお出になると、女房の兄の紀伊守・藤原範光が
- `これは物でも憑いて狂われたか
- `四宮の御運は今まさに開かれようとしているのに
- `と引き留めた
- `次の日に、後白河法皇からお迎えの車が到着した
- `何事も運命で決まっているとはいうが、紀伊守範光は四宮にとっては見事な奉公人であると見えた
- `しかし、その忠義もお思いにならないのか、空しく年月を送っていたが、あるとき、範光はもしやと思い、二首の歌を詠んで、宮中に落書きをした
- `一声は思い出して鳴けほととぎす、老蘇の森の夜半の昔を
- `籠の中さえうらやましい、山がらの身を隠している夕顔の宿
- `天皇はこれをご覧になって
- `これほどのことを、今まで気づかなかったとは、かえすがえすもうかつであった
- `とすぐに帝の恩を蒙って、正三位に叙せられたという