六一三一六箇度合戦
現代語訳
- `平家が一の谷へ移られて後も四国の兵たちは一向に従わない
- `中でも阿波・讃岐の庁の役人たちは平家に背いて源氏になびいていたが
- `さすがに昨日今日まで平家に従っていた身が、今日初めて源氏へ参っても、信用してはもらえまい
- `平家に矢を一度射かけて、証明してから参ろう
- `ということになり、門脇中納言・平教盛、嫡子・越前三位通盛、弟・能登守教経父子三人が備前国下津井におられると聞くと、射かけようと兵船十余艘で寄せていった
- `能登守・平教経殿はたいへん怒って
- `昨日今日まで我らの馬の餌を刈っていた者どもが、いつの間にか約束を破り、手のひらを返すとは
- `そういうつもりなら一人残らず殺してしまえ
- `と小舟を浮かべて追われたので、四国の兵たちは傍目にわかる程度に矢を一筋射て退こうと思っていたが、教経殿にあまりに手ひどく攻められて、敵わないと思ってか、負けたと決めつけて退き、淡路国福良の港に着いた
- `その国に源氏が二人いた
- `故六条判官・源為義の末子・賀茂冠者義嗣と淡路冠者・源義久という者で、西国の兵たちは大将と頼り、城廓で構えていたところへ教経殿が攻撃してこられたので、義嗣は討ち死にした
- `淡路冠者義久は痛手を負って生け捕りにされた
- `残って防ぎ矢を射ていた者たち二百三十余人の首を斬らせ、討手の名前を記して福原へ届けられた
- `それから門脇中納言教盛殿は福原に行かれた
- `子息たちは、伊予の河野四郎通信が召集に応じなかったことを攻めようと四国へ渡られた
- `兄・越前三位通盛卿は、阿波国花園城に到着した
- `弟・能登守教経は讃岐の屋島へ到着したと聞き、伊予国の住人・河野四郎通信は安芸国の住人・沼田次郎が母方の伯父だったので、連合しようと、伊予国を発って安芸国へ渡り、沼田城に立てこもった
- `教経殿はこの由を聞かれ、屋島を発って追われたが、その日は備後国蓑島に着き、次の日沼田城へ寄せられた
- `沼田次郎と河野通信が合流して城郭を守っているところへ、教経殿がまもなく押し寄せて激しく攻められると、沼田次郎は抵抗しきれず兜を脱ぎ、弓の弦を外して降参した
- `河野通信はなおも従わず、五百余騎いた勢を五十騎になるまで討たれ、城を落ちてゆくとき、ここに教経殿の侍に平八兵衛為員という者が率いる二百騎ほどに包囲され、主従七騎にされて、助け舟に乗ろうと、細道を走って波打ち際の方へ落ち延びようとするところを、弓の名手である平八兵衛の子息・讃岐七郎義範が追いついて、七騎中五騎を射止めた
- `主従二騎になった
- `河野四郎がたいへんかわいがっていた郎等を、讃岐七郎義範が馬を並べ、むんずと組んでどうと落ち、取り押さえて首を斬ろうとするところに、河野通信が引き返し、郎等らの上にいた讃岐七郎義範の首を掻き切って深田へ投げ入れ、大声を張り上げて
- `伊予国の住人・河野四郎越智通信、生年二十一歳
- `戦とはこうやるものだ
- `我こそはと思う者は、ここに来て仕留めてみろ
- `と名乗り捨てる、郎等を肩に担ぎ、そのばを振り切って逃げると、伊予国へ渡った
- `教経殿は、河野四郎通信を討ち洩らされたが、捕虜となった沼田次郎を召し連れて一の谷へ行かれた
- `また淡路国の住人・安摩六郎忠景も平家に背いて源氏になびいていたが、大船二艘に兵糧米を積み、武具を入れ、都に向かっているとき、教経殿が福原でこの由を聞かれ、小舟十艘ほどを浮かべて追われ、西宮の沖で安摩忠景は引き返し、防戦した
- `教経殿は
- `残すな
- `洩らすな
- `と激しく攻められると、安摩忠景は敵わないと思ったか、負けたと決めつけて退いた
- `和泉国吹井浦に到着した
- `また紀伊国の住人・園辺兵衛忠康は、安摩忠景が教経殿に手ひどく攻められて和泉国吹井浦に着いたと聞き、百騎ほどで駆けつけて合流した
- `教経殿はすぐに押し寄せて激しく攻められると、安摩忠景と園辺兵衛忠康は敵わないと思ったか、家子・郎等らに防ぎ矢を射させ、自分たちは京へ逃げ上った
- `教経殿は防ぎ矢を射かけていた兵ども二百余人の首を斬って福原へ行かれた
- `また豊後国の住人・臼杵次郎惟隆、緒方三郎惟義、伊予国の住人・河野四郎通信が連合して総勢二千余人となり、小舟に乗って備前国へ渡り、今木城に立てこもった
- `教経殿は福原でこの由を聞かれ、放ってはおけないと、その勢三千余騎で備前国に馳せ下り、今木城を攻められた
- `教経殿は
- `奴らは手強い
- `援軍をお願いしたい
- `と依頼をされると、福原から数万騎の軍兵が差し向けたとのことだったので、今木城内の兵たちは、精一杯戦い、とことん分捕り手柄を立てたが
- `平家は大軍で攻めてきます
- `我らは無勢
- `ここを落ち延びて、しばし軍の立て直しをしよう
- `と、て臼杵次郎惟隆、緒方三郎惟義は九州へ渡り、河野四郎通信は伊予へ渡った
- `教経殿は
- `もう敵がいない
- `と福原へ戻られた
- `宗盛殿以下、公卿や殿上人は集まって、教経殿の幾度の活躍に感心された