七一三二三草勢揃
現代語訳
- `同・寿永三年一月二十九日、源範頼と義経は院の御所に参内し、平家追討のために西国へ発向する由を奏聞した
- `我が国には神代の昔から伝わる三つの宝がある
- `八咫鏡、八尺瓊曲玉、天叢雲剣がそうである
- `無事に保管したら、十分気をつけて都へ還すように
- `との仰せが下された
- `二人はかしこまり承って退出した
- `二月四日、福原では故・清盛入道の命日ということで、仏事が形どおりに執り行われた
- `朝夕の合戦に明け暮れ、過ぎゆく月日も忘れ、去年は今年となり、物憂い春がやってきた
- `世が世なら、どんな卒塔婆を立るべきか、仏事はどのようにしようかなど考えることもあっただろうに、今年はただ男女の公達が集まって嘆き悲しむだけであった
- `このついでに叙位任官が行われ、僧も俗人も皆官職に就いた
- `さて、門脇平中納言教盛殿を正二位大納言に任ぜられることを、宗盛殿が伝えられると、教盛殿は
- `今日までも生きていられぬ我が身であった、夢の中にも夢を見ているようだ
- `と詠まれて返事をし、ついに大納言には就かれなかった
- `大外記・中原師直お子・周防介師純が大外記になった
- `兵部少輔・藤原尹明が五位蔵人に任ぜられ
- `蔵人少輔
- `と呼ばれた
- `昔、平将門が関東八か国を従えて下総国相馬郡に都を造り、自分を平親王と称して百官を任じたときには暦の博士がいなかった
- `今の平家は将門の頃のそれとは違う
- `天皇は旧都・福原を出ておられるといえども、三種の神器を携えて帝位に即いておられるので、叙位任官が行われても何もまずいことはない
- `平家は既に福原まで攻め上って京へ帰るという噂が流れると、都に残されていた人たちの喜びようは尋常ではなかった
- `中でも二位僧都・専親は梶井円融院・承仁宮と長年同じ寺にいらした間柄だったので、時折便りを出されていた
- `承仁宮からもまた常々手紙があって
- `旅の空での暮らし、どれほどかつらいでしょうが、都もまだ鎮まっておりません
- `などとこまごまと記され、一首の歌を詠み、終わりに記された
- `人知れずそなたをしのぶ我が心を、西に傾く月に付けてそちらへ送ります
- `専親僧都はこれを顔に押し当て、悲しみの涙を止めことができなかった
- `さて、小松三位中将維盛殿は、年月が経るにつれ、都に残してきた北の方や子供たちことばかり思い出して嘆き悲しまれた
- `商人に託して手紙をやりとりしていたが、北の方の都での暮らしを気の毒に思われ
- `ならば、こちらに迎えて一緒にどうにでもなろう
- `とは思いはするものの
- `いつまでともわからない波の上・船の中での暮らしなので、自分一人ならともかく、共に暮らしてはつらい思いをさせるだろう
- `などと沈んだ気分で明かし暮らされている、その心の深さのほどもよくわかる
- `二月四日、源氏は福原を攻めようとしたが、故・清盛入道の命日であると聞き、仏事を遂げさせるため、攻めなかった
- `五日は西塞がり、六日は道虚日のため、七日の卯の刻、一の谷の東西の木戸口で源平は矢合わせをすると決めた
- `しかし四日は吉日なので、軍兵を正面と搦手の二手にけて攻め、大手の大将軍には、蒲御曹司・源範頼、従者は、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同・小次郎長清、山名次郎教義、同・三郎義行、侍大将には、梶原平三景時、嫡子・源太景季、次男・平次景高、同・三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同・五郎行重、小山小四郎朝政、中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺前司太郎道綱、曽我太郎資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎広行、庄三郎忠家、同・四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同・次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先鋒として、総勢五万余騎、四日辰の刻に都を発って、その日の申酉の刻には摂津国昆陽野に布陣した
- `搦手の大将軍には、九郎御曹司・源義経、従者は、安田三郎義貞、大内太郎維義、村上判官代康国、田代冠者信綱、侍大将には、土肥次郎実平、子息・弥太郎遠平、三浦介義澄、子息・平六義村、畠山庄司次郎重忠、同・長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、同・次郎義茂、三郎宗実、佐々木四郎高綱、同・五郎義清、熊谷次郎直実、子息・小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同・与一親範、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、その子・太郎光義、片岡太郎経春、源八広綱、伊勢三郎義盛、奥州佐藤三郎継信、同・四郎忠信、江田源三弘基、熊井太郎忠基、武蔵坊弁慶、これらを先鋒として総勢一万余騎、同じ日の同じ時に都を発って、丹波路にさしかかり、二日かかる行程を一日に縮めて丹波と播磨の国境である三草山の東の山口、小野原に到着した