現代語訳
- `同・寿永三年二月十四日、生け捕りとなった本三位中将重衡殿が都へ入って大路を引き回された
- `小八葉の車の前後の簾を上げ、左右の物見窓を開いた
- `土肥次郎実平が、木蘭地の直垂に小具足だけを着け、三十余騎の兵を従えて車の前後を警護した
- `京中の者たちがこれを見て
- `ああ気の毒に
- `大勢おられる公達の中で、この人だけがこんなことになってしまわれた
- `父・清盛入道殿にも母・八条二位・時子殿にもかわいがられた御子であられたので、一門の人々からも重んじられ、院の御所や、内裏へ向かわれる際も、老若問わず一目置かれていたのに
- `この人は奈良の寺院を焼き払われた罰を受けるのだ
- `と言い合った
- `六条を東へ河原まで引き回され、そこから戻って、故・中御門藤中納言家成殿の八条堀川の御堂に監禁し、厳しく警護した
- `院の御所から使者として蔵人左衛門権佐・藤原定長が八条堀川へ出向いた
- `赤衣に剣と笏とを帯び、正装していた
- `三位中将重衡殿は紺村濃の直垂に折烏帽子を立てておられた
- `日頃はなんとも思っていなかった定長だが、今は冥途で罪人たちが冥官に会うような心地であった
- `三位中将重衡殿は
- `あれほどの我が国の宝である三種の神器を、この重衡ひとりの命と引き替えにするなど、内府宗盛以下一門の者たちは誰も首を縦に振るまい
- `我が母・八条二位殿なら女性なので、もしかしたら頷いてくれるかもしれない
- `とはいえ、一門に何も言わないまま、院宣をお返しするのは恐縮なので、急いでその由を伝えてみよう
- `と言われた
- `北の方である大納言典侍・輔子殿へも言葉で
- `旅の空でもそなたは私に慰められ、私はそなたに慰められてきたのに、離ればなれになって後、どれほど悲しい思いをしていることだろう
- `契りは朽ちないものと言うから、後世で生れ変わっても出逢おうと、必ず祈ってほしい
- `と泣く泣く言伝てされると、重国も実に哀れに思われて、涙をこらえて都へ発った
- `ここに三位中将の侍で木工右馬允・近藤知時という者がいた
- `その夜、土肥次郎実平のところへ行き
- `私は長年中将重衡殿に召し使われております何某という者で、西国へ下られるときにお供するつもりでおりましたが、八条二位殿に兼ねて仕えておりましたので、京都に留まっております
- `武人でもありませんので、軍合戦のお供をしたこともありません
- `朝夕、御前に仕えるばかりでございました
- `それでもなお、ご不審な点がございましたら、腰の刀をお取り上げになってでも、どうかお許しをください
- `と言うと、土肥次郎実平は思いやりのある者で
- `本当に貴殿ひとりなら問題はないだろう
- `だが、これは
- `と腰の刀を預かって、知時を中に入れた
- `知時はたいへん喜び、急いで近づき、様子を見ると、本当に思い詰めておられるようで、お姿もひどく落ち込んで見えたので、涙もこらえきれなかった
- `中将重衡殿は夢の中で夢を見るような心地で、もう言葉も出なかった
- `そして、これまでのことなどをあれこれ語り合い
- `彼女はまだ内裏にいると聞いているか
- `そう伺っております
- `西国へ下った時も、何も言い残してこなかったので
- `長年の契りはすべて嘘だったのか
- `と彼女が思うことが恥ずかしい
- `文を出そうと思うのだが、どう思う
- `渡してもらいたいのだが
- `と言われると、知時は
- `お手紙をお預かりしましょう
- `と言う
- `中将重衡殿はたいへん悦び、すぐに書いて手渡した
- `知時はこれを受け取り、急いで内裏へ参り、昼は人目につきやすいので、その辺にある小家に立ち寄って時間をつぶし、黄昏時に紛れ込み、大納言典侍殿の部屋の裏口辺りに佇んで耳をそばだてていると、大納言典侍殿と思しき声で
- `人は皆
- `奈良の寺院を焼き払った罰だ
- `と言っています
- `重衡殿もそう言っていました
- `自ら率先して焼いたわけではないけれども、悪党が多かったので、手に手に火を放って多くの堂や塔を焼き滅ぼした
- `木の葉の端の露が木の元の雫となるように、自分ひとりの罪になるんだろう
- `と言っていたけれど、そのとおりになってしまったようです
- `と言って泣くので、知時は
- `なんとかわいそうに
- `彼女もまだお忘れになってはいないのだ
- `とありがたく思って
- `お話があります
- `と言うと
- `なんです
- `と答えた
- `ここに三位中将重衡殿からお手紙を預かって参りました
- `と言うと、普段は恥ずかしがって顔もお見せにならない人が
- `どこ、どこですか
- `とて走り出て、自ら手紙を取って読まれると、西国で生け捕りされた様子、明日をも知れない身の行方などこまごまと書かれてあり、奥には一首の歌が詠まれていた
- `涙川にうき名を流す身だけれども、もう一度の逢う瀬があったら
- `女房はこの手紙を懐にしまうと、何も言わず、衣を被って臥せられた
- `こうして時がどんどん経ってしまいますと、私のほうも気がかりになってまいります
- `お返事をお預かりして帰ります
- `と言うと、大納言典侍殿は涙ながらに返事を書かれた
- `心苦しくやりきれないこの二年を送った心の内をこまごまと書いて
- `あなたのために私もうき名を流しても、底の水屑に共になりましょう
- `知時はこれを受け取り、帰ろうとすると
- `守護の武士たちが
- `どのような手紙か、見せてもらおう
- `と言うので、見せた
- `問題ない
- `と返された
- `中将重衡殿はこれを見て、思いが一気にあふれてか、何も言われなかった
- `少しして、土肥次郎実平を呼ぶと
- `それにしても、このたびの皆様の情け深い心遣いには感謝し、嬉しく思っている
- `そこで最後にもう一度、お願いしたいことがある
- `私は一人も子供がいないので、この世に思い残すことはない
- `長年契った女房にもう一度逢って、後世のことを言い残しておきたいのだが、どんなものだろうか
- `叶わないだろうか
- `と言うと、土肥次郎実平は思いやりのある者なので
- `本当に女房などであれば、何も問題はありますまい
- `早く、早く
- `と許した
- `中将重衡殿はたいへん喜び、人に車を借りて迎えに遣わした
- `大納言典侍殿は取る物も取りあえず、急いで乗っていらした
- `縁に車を寄せさせ、この由をじかじかと言うと、中将重衡殿は
- `守護の武士たちが見ているから、下りてはなりません
- `と車の簾をまくり上げ、手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、しばしは何も言葉を交わさず、ただ泣くばかりであった
- `少しして、中将重衡殿は涙をこらえて
- `西国へ下ったときも何も言い残さず、その後はなんとかして手紙を送り、お返事をいただきたかったけれども、朝夕の合戦でその余裕もなく時が過ぎてしまいました
- `今またこのようにつらい目に遭っているのも、再会する運命だったからでしょう
- `と泣かれた
- `互いの心の内は察するほどに哀れであった