一五一五九大嘗会
現代語訳
- `元暦元年九月二十六日、九郎判官義経は五位尉に任ぜられ
- `九郎大夫判官
- `と名乗った
- `さて、十月になった
- `屋島は浦吹く風も激しく、磯を打つ波も高かくて、兵も攻めてこない
- `商船が行き交うこともほとんどなく、都からの言伝てを聞きたくても聞けず、空はかき曇り、霰は降って、ひどく鬱陶しかった
- `都では大嘗会が催されるということで、十月三日、新帝・後鳥羽天皇の禊のため賀茂川へ行幸があった
- `進行役として、当時まだ内大臣でいらした徳大寺実定殿が勤められた
- `一昨年、先帝・安徳天皇の禊の行幸には、宗盛殿が勤められた
- `節会のための仮屋に到着して、前に龍の絵柄の旗を立てておられたときの宗盛殿の、雰囲気や冠の具合、袖のかかり具合、表袴の裾まで、実に見事に見えた
- `そのほか三位中将知盛殿、頭中将重衡殿をはじめ、近衛司が綱取役を勤められたが、他とは比べものにならいほど立派であった
- `今日は九郎判官義経が先陣としてお供した
- `これは木曽義仲殿などとは大違いで、実に都慣れしていたが、平家の選りくずの者たちにも劣っていた
- `同・十八日、大嘗会が催された
- `去る治承・養和の頃、諸国七道の人民・百姓たちは、平家に苦しめられたり、源氏に殺されたりした
- `家やかまどを捨てて山林に逃げ込み、春は耕作を忘れ、秋は収穫もできなかった
- `そのようなときに、こんな大礼は行うべきではないが、それどころではないので、形どおりに遂げられた
- `大将軍三河守・源範頼殿がただちに続いて攻撃なされば平家はたやすく滅ぶはずなのに、室の津や高砂で休息し、遊君・遊女たちを召し集め、遊び、酒盛りをするなど戯れるばかりの日々を送っていた
- `東国の大名・小名も多いとはいえ、大将軍範頼殿の下知に従わざるを得ないのでどうしようもなかった
- `ただ国費ばかりが失われ、民は疲弊し、今年も既に暮れていった