現代語訳
- `義経殿のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着、黄金作りの太刀を佩き、二十四筋差した切斑の矢を背負い、滋籐の弓の真ん中を持っており、舟の方を睨みつけ、大声を張り上げて
- `後白河法皇の使者、検非違使五位尉・源義経
- `と名乗った
- `次に名乗るは、伊豆国の住人・田代冠者信綱
- `武蔵国の住人・金子十郎家忠
- `同じく与一親範
- `伊勢三郎義盛
- `と名乗った
- `続いて名乗るは、後藤兵衛実基
- `その子・新兵衛基清
- `奥州の佐藤三郎兵衛継信
- `同じく四郎兵衛忠信
- `江田源三弘基
- `熊井太郎忠基
- `武蔵坊弁慶
- `など一人当千の兵たちが次々に名乗りを上げて駆けつけた
- `源氏の兵たちはこれをものともせず、左に見ては射て通り、右手に見ては射て通る
- `陸上げしておいた舟の陰で馬を休め、雄叫びを上げて攻め戦う
- `後藤兵衛実基は経験豊富なので、磯での軍を避け、まず内裏に乱入し、手に手に火を放ってたちまち焼き払ってしまった
- `宗盛殿は侍たちに
- `源氏の勢はどれほどいるのか
- `と尋ねられた
- `七・八十騎はないでしょう
- `なんと情けない
- `敵勢からそれぞれ髪を一本ずつ抜き取っても我らの勢に満たないのか
- `取り囲んで討ち取らず、慌てて舟に乗り内裏を焼かせてしまったことが残念だ
- `教経殿はいないか
- `陸へ上って一戦しよう
- `と言われると
- `承知しました
- `と、越中次郎兵衛・平盛嗣、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清を先鋒として総勢五百余人が小舟に乗って焼き払った総門の渚に押し寄せて布陣した
- `義経殿も八十余騎をほどよい射程距離まで寄せて待った
- `平家方から越中次郎兵衛盛嗣殿が、舟の甲板に進み出て、大声を張り上げて
- `以前に名乗られていたのは聞いたのだが、海上遠く離れていてどうも名前が聞き取れなかった
- `今日の源氏の大将軍はどなたかな
- `名乗られよ
- `と言われると、伊勢三郎義盛が歩み出て
- `なんと愚かしい、清和天皇十代の子孫、源頼朝殿の御弟・九郎大夫判官義経殿だ
- `盛嗣はこれを聞いて
- `ああ、そうだった
- `先年、平治の合戦に父親討たれて孤児になったから、鞍馬山で稚児をして、後には金商人の手下になって、米を背負って奥州の方へ逃げ惑った、あの小冠者だったな
- `と言った
- `義盛は聞いて
- `このおしゃべりめ、好き勝手に殿の悪口を言うのをやめろ
- `そういうおまえらこそ、北国砥浪山の合戦でぼろ負けして、やっと生き延びて北陸道にさまよって、乞食をしていたんだったな
- `と言った
- `盛嗣は聞いて
- `帝のご恩を飽きるほどいただいて、どこに不足があって乞食をするというのか
- `そういうおまえらこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊まがいのことをして一族郎等暮らしていたと聞くぞ
- `と言うと、金子十郎家忠が進み出て
- `くだらない殿方のざれ言だ
- `互いに悪口を言い合ったところで勝負はつかないだろう
- `それにしても去年の春、摂津国一の谷で、武蔵・相模の若武者たちの腕前は見ただろうに
- `と言うと、そばにいた弟の与一が、言い終わらないうちに、十二束二つ伏せの矢を引き絞ってひゅっと放った
- `盛嗣殿の鎧の胸板の裏へ抜けるほどに射貫いた
- `そうして互いの口喧嘩は止んだ
- `能登守教経殿は
- `舟戦にはやり方というのがある
- `と、鎧直垂を着けず、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧を着、厳めしい作りの太刀を佩き、二十四筋差した鷹黶の矢を背負い、滋籐の弓を持たれた
- `都で一番の強弓の精兵なので、教経殿の矢面に立つ者は一人として射られぬ者はなかった
- `中でも源氏の大将軍九郎義経をただ一矢で射ようと狙われていたが、源氏方も既にわかっていて、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同・四郎兵衛忠信、江田源三弘基、熊井太郎忠基、武蔵坊弁慶といった一人当千の兵たちが、馬の頭を一列に並べて義経殿の矢面を防がれたので、どうにもできなかった
- `教経殿は
- `そこをどけ、矢面の雑魚ども
- `と次々に矢をつがえてさんざんに射られると、たちまち鎧武者十余騎ほどが射殺された
- `中でも真っ先に進んだ奥州の佐藤三郎兵衛継信は、左の肩から右の脇へかけて射抜かれ、たまらずに馬からさかさまに落ちた
- `教経殿の童子・菊王丸は怪力勇猛な者で、萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め、打物の鞘を外して、継信の首を取ろうと飛びかかったが、近くにいた忠信が兄が首を取らすまいと、十三束三つ伏せの矢を引き絞ってひゅっと放った
- `菊王丸は草摺のわきから向こうがわへ射ぬかれて四つんばいになって倒れた
- `教盛殿はこれを見て、左手に弓を持ち、右手で菊王丸を抱えて舟へからりと投げ込まれだ
- `敵に首は取られなかったが、深手を負っていたので死んでしまった
- `菊王丸というのは越前三位通盛殿の童子であった
- `しかし、通盛殿が討たれて後、弟の教盛殿に仕えていた
- `生年十八歳であったという
- `教盛殿は菊王丸を討たれたことがあまりに哀しく、その後は合戦もなさらなかった
- `義経殿は継信を陣の背後へ退かせ、急いで馬から飛び下り、手をとって
- `しっかりしろ
- `と声をかけられると、継信は虫の息で答えた
- `もうだめです
- `言い残すことはないか
- `と言われると
- `なにもありません
- `ただ、殿が出世されるのをこの目で見ることなく死んでいくのが心残りです
- `しかし、武人が敵の矢に当たって死ぬのは、もとより覚悟の上です
- `とりわけ
- `源平合戦のとき、奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐国屋島の磯で、主君の命に代わって討たれた
- `と末代まで語り継がれるのは、この世の名誉、冥土の思い出となりましょう
- `と言うと、どんどん弱っていった
- `義経殿も哀れに思われ、鎧の袖を濡らされた