一〇一六九先帝身投
現代語訳
- `義経殿はこれを
- `八幡大菩薩が現れられたのに違いない
- `と喜んで、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、これを拝んだ
- `兵たちも皆同様であった
- `少しして、また沖の方からいるかという魚が一・二千水面に顔を出して平家の舟の方に向かってきた
- `宗盛殿は陰陽師の小博士・安倍晴信を呼び
- `いるかはいつも多いが、このようなことは今までなかった
- `よく占ってみよ
- `と命じられると
- `このいるかが振り向けば、源氏は滅ぶでしょう
- `まっすぐ泳いで行けば、味方の軍が危ないでしょう
- `と言いも終わらぬうちに、はや平家の舟の下をまっすぐ顔を出して泳ぎ去った
- `世の趨勢はこうなっているように見えた
- `阿波民部・田口成良はこの三年間平家に忠義を尽くしていたが、子息・田内左衛門教能を生け捕りにされて、もうだめだと思ってか、たちまち心変わりして源氏と合流した
- `新中納言知盛殿
- `くそっ、重能めを斬り捨てておけばよかった
- `と後悔されたが、どうにもならなかった
- `さて、平家方では、身分の高い武者を兵船に乗せ、雑人たちを唐船に乗せ、源氏が憎さに唐船を攻ているとき、取り囲んで討ってしまおうという作戦を立てて準備していたが、重能が寝返ったので、唐船には目もくれず、大将軍が身をやつして乗られている兵船を攻められた
- `その後は、四国や九州の兵たちが皆平家に背いて源氏方についた
- `今まで付き従ってきたが、その主君に向かって弓を引き、太刀を抜いた
- `ゆえに、あの岸に着こうとすれば波が高くて向かえない
- `この波打ち際に寄せようとすれば、敵が矢先を揃えて待ち構えている
- `源平の国盗り合戦は今日が最後と見えた
- `さて、源氏の兵たちが平家の舟に乗り移ってきて、水主、梶取たちは射殺され斬り殺されて、舟を立て直すことができず、舟底に皆倒れてしまった
- `新中納言知盛殿は小舟に乗り、急いで御座舟に移られ
- `もはやこのような状況です
- `見苦しい物は海へ捨てて、舟をきれいにしてください
- `と、掃いたり拭いたり、塵を拾ったり、甲板を走り回って、自ら掃除をなさった
- `女房たちは
- `知盛殿、今、合戦はどうなっているのですか
- `と尋ねられると
- `珍しい東男がご覧になれますよ
- `と、からからと笑われたので、女房たちは
- `まったくなんのお戯れですか
- `と声々に大声で叱られた
- `八条二位殿は日頃からお考えになっていたことなので、鈍色の二衣を被り、練袴の股立ちを高くつかみ、神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差し、安徳天皇をお抱きになり
- `私は女であっても、敵の手にはかかりません
- `帝のお供に参ります
- `同じ思いの人々は急いで私について来なさい
- `と静々と舳先へ歩み出られた
- `安徳天皇は今年八歳におなりだが、お歳よりはるかに大人びておられ、お姿も美しく、辺りが照り輝くほどであった
- `背中あたりまで伸びた黒髪が美しく揺れておられる
- `驚かれた様子で
- `朕をどこへ連れていくつもりだ
- `と仰せになると、八条二位殿は、幼い帝に顔を向け、涙をほろほろと流して
- `まだご存じないのですね
- `前世で行った十善・戒行の力によって、今天皇としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれて、その御運はすっかり消えてしまったのです
- `まず東をお向きになり、伊勢大神宮にお暇を申し上げ、その後西をお向きになり、西方浄土のお迎えをお願いし、お念仏を唱えなさいませ
- `この国は小さな辺境の地で、憩えるところではありませんから、極楽浄土という幸せなところへお連れするのです
- `と泣く泣く説得されると、山鳩色の御衣に鬢を結われ、涙ながらに小さく美しい手をお合わせになり、まず東を向かれ、伊勢大神宮にお暇申し上げ、その後西を向かれて念仏を唱えられると、八条二位殿はすぐにお抱えになって
- `波の底にも都がございます
- `と慰められて、遥かな海の底に沈まれた
- `悲しいことに、無常の春の風はたちまち花の御姿を散らし、痛ましくも、生死を分ける荒い波が帝のお体を沈めた
- `御殿を
- `長生殿
- `と名づけ、長く暮らせる住まいと決めて、門を
- `不老門
- `と名づけ
- `老いぬ門戸
- `と書いたが、まだ十歳に満たないうちに海の藻屑となられたのだった
- `天子の位に即かれながら、ごのようなご運であるとは、言葉が見つからない
- `雲上の龍が下ってきて、海底の魚になられた
- `梵天がお住まいの高い楼閣の上か、帝釈天がお住まいの喜見城にお住まいになり、昔は大臣や公卿に囲まれて平家一門を従えておられた方が、今は舟の内、波の下で御命を一瞬で滅ぼされたのは悲しいことである