一二一七一内侍所都入
現代語訳
- `新中納言知盛殿は
- `見届けるべきことはすべて見た
- `もう何も思い残すことはない
- `と、乳母子の伊賀平内左衛門家長を呼び
- `日頃の約束は破らないつもりか
- `と言われると
- `もちろんです
- `と、知盛殿にも鎧を二領着せ、自分も鎧を二領着て、手に手を取って一緒に入水した
- `これを見て二十余人の侍たちも続いて海に沈んでいった
- `しかしそんな中、越中次郎兵衛盛嗣殿、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清、飛騨四郎兵衛・伊藤景高は、なんとかして逃れようと、そこもついに逃げ延びた
- `海上に赤旗・赤印を切り捨て、かなぐり捨てると、龍田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたがごとくであった
- `水際に寄せる白波は薄紅に染まった
- `主のいないうつろ舟は、潮に引かれ風に任せて、もの悲しくどこを目指すともなく揺れて行く
- `生け捕りには、前内大臣宗盛殿、平大納言時忠殿、右衛門督清宗殿、内蔵頭信基殿、讃岐中将時実殿、宗盛殿の八歳の若君、兵部少輔・藤原尹明、僧には、二位僧都・専親、法勝寺執行・能円、中納言律師・仲快、経誦坊阿闍梨・融円、侍には、源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、藤内左衛門信康、阿波民部・田口成良・教能父子、以上三十八人であった
- `菊池次郎高直と原田大夫種直は合戦以前から長年の郎等を連れて、兜を脱ぎ、弓の弦を外して降人となった
- `女房たちには、建礼門院殿、北政所・完子殿、義経殿の異父妹・廊の御方、帥典侍・領子殿、重盛殿の北の方・大納言典侍殿、知盛殿の北の方・治部卿局をはじめ四十三人であったという
- `元歴二年の春の暮れ、どういう年月で、一人が海底に沈み、百官が波上に浮かぶことになったのであろうか
- `帝の母・建礼門院と官女は東方西方の野蛮人に従い、家臣や公卿は数万の軍勢に囚われて故郷の都へ帰ったときは、漢の朱買臣が故郷に錦を飾れなかったことを嘆いたり、漢の王昭君が胡国に赴いたことを恨んだときもこんなふうかと思われるほど悲しみ合われた
- `四月三日、義経殿は、源八広綱を使者に院の御所へ向かわせ
- `去る三月二十四日の卯の刻に、豊前国田浦門司関、長門国壇浦赤間関で平家を攻め滅ぼしましたので、八咫鏡と八尺瓊曲玉を無事都へ返還します
- `と奏聞すると、法皇は感動された
- `公卿も殿上人もおおいに喜ばれた
- `広綱を御前の庭へ召して、合戦の様子を詳しく尋ねられ、感心のあまりにその場で広綱を左兵衛尉に任じられた
- `同・五日、北面武士の藤判官信盛を召して
- `八咫鏡と八尺瓊曲玉がたしかに返還されたか確かめてまいれ
- `と西国へ遣わされた
- `院の御馬を賜って、家へも帰らず、鞭を上げて西を目指して馳せ下った
- `さて、義経殿は、平家の男女の捕虜たちを引き連れて京へ向かわれたが、同・十四日、播磨国明石の浦に到着した
- `名の知られた浦で、更けゆくままに月は冴えわたり、秋の空にも劣らない
- `女房たちは集まって
- `先年、ここを通ったときには、まさかこんなことになるとは思ってもみなかったのに
- `と皆忍び泣かれた
- `大納言典侍殿は深く心に思い出されることもあって、涙で床が浮くほどであった
- `しみじみと月を眺められてこう詠まれた
- `眺めれば、涙に濡れる袂に映る月よ、宮中の物語をしておくれ
- `治部卿局殿
- `宮中で見たのと変わらぬ月影が、すむにつけてももの悲しい
- `重衡殿の北の方・大納言典侍・輔子殿
- `私の身も、あかしの浦の旅寝だろうけれど、同じ浦の波に月も宿ることでしょう
- `義経殿も武人であったが
- `みんなさぞかし昔のことを恋しく物悲しく思っておられるのだろう
- `としみじみ感じられ、哀れに思われた
- `同・二十五日、八咫鏡と八尺瓊曲玉が鳥羽に到着したというので、お迎えに参上した
- `公卿には、勘解由小路中納言経房殿、検非違使別当・左衛門督実家殿、高倉宰相中将泰通殿、権右中弁兼忠殿、左衛門権佐親雅殿、榎並中将公時殿、但馬少将教能殿、武士に、は伊豆蔵人大夫・源頼兼、石川判官代能兼、左衛門尉・源有綱であったという
- `その夜の子の刻に、八咫鏡と八尺瓊曲玉が太政官庁にお入りになった
- `天叢雲剣はなくなってしまった
- `八咫鏡は海上に浮かんでいたのを片岡太郎経春が取り上げ奉ったという