一五一七四副将
現代語訳
- `西国が鎮まり、往来も障りなく、都も穏やかになったので
- `天下の人々は皆、義経殿以上の人物はいない
- `日本国はただ義経殿の思うままであったらよいのに
- `などと言っていたが、それが鎌倉の頼朝殿の耳に入り
- `なんだと
- `おれが首尾よく取り計らい、まず討手を遣わしたからこそ平家はたやすく滅んだのだ
- `義経ひとりで世を鎮められるわけがあるまい
- `世に人は多いのに、よりによって平時忠の聟の座に収まり、時忠を手厚くもてなしているようだ
- `時忠も聟を取るなどとんでもない
- `人々がちやほやするから調子に乗って、いつか世を思うままにするつもりかもしれん
- `鎌倉へ来ても、おそらく身分不相応のふるまいをするだろう
- `と言われた
- `さて、元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経殿が、平宗盛殿・清宗殿父子を連れて関東へ下ることになると、宗盛殿は義経殿のもとへ使者を送り
- `明日関東へ下ると伺いました
- `ところで、捕虜の中にいるという八歳の童子はまだこの世におりますか
- `生きていたら、もう一度逢いたいのですが
- `と言われると、義経殿は
- `誰も恩愛の道というのは思いを断てないものですから、本当にそう思われているのでしょう
- `と、河越小太郎重房のところに預け置かれていた若君を急いで宗盛大臣殿のもとへお連れするよう使者に命じられたので、重房は人に車を借りてお乗せした
- `二人の女房たちも共に乗って出た
- `若君は父を遠くにご覧になり、とても嬉しそうにされていた
- `宗盛殿も若君をご覧になり
- `さあ副将軍殿、こちらへ
- `と言われると、急いで父の膝の上に乗られた
- `宗盛殿は若君の髪をかき撫で、涙をほろほろ流して
- `おのおの方聞いてください、この子には母がいないのです
- `この子の母は、この子を産むときには安産でしたが、そのまま起きることができず、七日目に世を去ったのです
- `この後、どんな人との間に若君が生まれても、この子を決してお捨てにならず、私の形見と思ってください
- `決してお放しにならず、乳母などにも預けないでください
- `と言っていたのがかわいそうで
- `朝敵を征伐するとき、そこにいる清宗に大将軍をさせ、これには副将軍をさせよう
- `そう思って、名を
- `副将
- `とつけると、彼女はとても喜んで、死ぬまでその名を呼んでかわいがっていましたが、七日目についに世を去ったのです
- `この子を見るたびにそのこと思い出されるのです
- `と言って泣かれると、守護の武士たちも皆鎧の袖を絞った
- `少しして、宗盛殿は
- `さあ副将よ、早く帰れ
- `と言われたが、若君は帰ろうとなさらない
- `清宗殿がこれをご覧になり
- `なにをしている、副将よ、今夜は早く帰れ
- `もうすぐお客さんがやって来る、また明日の朝急いで参れ
- `と言われたが、父の浄衣の袖にしがみつき
- `いやだ、帰らない
- `と泣かれた
- `こうしてずいぶんと時間が経って、日も傾いてきた
- `しかしそうしてばかりもいられないので、乳母の女房が抱え、ついに車にお乗せした
- `二人の女房たちも袖を顔に押し当て、泣きながらあいさつをして、共に乗って出て行った
- `宗盛殿は遠ざかる若君のずっと見送られ
- `日頃の寂しさなど今に較べたら物の数ではない
- `と悲しまれた
- `この子は母の遺言のあるがゆえに、乳母などに預けることもなく、朝夕父の御前で育てられた
- `三歳で元服させ
- `義宗
- `と名乗らせた
- `成長するにしたがって容貌も美しくなり、心も優しかったので、宗盛殿もとても嬉しく思われて、西海の旅の空、舟の内のまでも連れてゆき、片時もお離しにならなかった
- `それが、合戦に敗れて後は、今日初めて互いの顔を合わせたのだった
- `重房は、義経殿に
- `ところで、なぜ若君をお取り計らいになったのですか
- `と言うと
- `鎌倉まで連れてゆくまでもないからだ
- `おまえ、ここで好きにせよ
- `と言われたので、重房は屋敷に帰って、二人の女房たちに
- `宗盛殿は明日、鎌倉へ下向される
- `私も供として下るから、緒方三郎惟義に預けてほしい
- `すぐにでもお願いしたい
- `と車を寄せると、若君は
- `また昨日のように父上のところへ行くんだね
- `と、かわいそうに、とても嬉しそうに思っておられた
- `二人の女房も同じ車に乗って出て行った
- `車は六条を東へ向かう
- `これはどうも様子がおかしい
- `と不安になっているところに、少しして、兵たち五・六十騎が叫びながら河原の中へ現れた
- `すぐに車を止め
- `若君、お降りください
- `と、敷皮を敷いた
- `若君は世にも心細げに思われ
- `私をどこへ連れていくつもりだ
- `と言われると、二人の女房たちは、なんの返事もできず、声を限りに叫んだ
- `重房の郎等が太刀を構え、左の方から若君の背後に立ち回り、まさに斬ろうとしたとき、若君はそれをご覧になって、少しでも逃れようと、慌てて乳母の懐の内へ逃げ込まれた
- `二人の女房たちは若君を抱えて
- `私たちを殺してください
- `と天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだがどうにもならない
- `少しして、重房が涙をこらえて
- `もはやどうにもならないのです
- `と急いで乳母の懐の内より若君を引きずり出し、押さえつけると、腰の刀でついに首を刎ねた
- `首を義経殿に見せよう
- `と持っていった
- `二人の女房たちは裸足で追いつき
- `どうかお願いです
- `御首をいただいて、供養をさせてください
- `と言われると、義経殿は情けある人なので
- `そうだろうとも
- `さあ早く
- `と与えられた
- `二人の女房たちはとても喜び、首を受け取って懐に引き入れ、京の方へ帰るように見えた
- `その後五・六日して、女房が二人、桂川に身を投げたという事件があった
- `幼い人の首を懐に入れて沈んでいた一人は、この若君の乳母の女房であった
- `もう一人、骸を抱いて沈んでいたのは付き添いの女房であった
- `乳母が殉ずるのはともかく、付き添いの女房まで身を投げたというのは珍しい