一七一七六大臣殿被斬
現代語訳
- `さて、鎌倉の頼朝殿は宗盛殿と対面された
- `頼朝殿のおられるところから庭をひとつ隔てた向かいの部屋に置かれ、簾の内からご覧になり、比企藤四郎義員を通じて
- `別に平家を我が私敵とは少しも思っておりません
- `というのも、亡き清盛入道殿がお許しにならなければ、私の命は助かりませんでした
- `そのことがあったからこそ二十余年も生きてこられたのです
- `しかし朝敵となられ、追討すべき由の院宣を賜った以上、帝の支配する土地に生まれて勅命に背くことなどできるはずもなく、ここにお迎えしたのです
- `このようにお目にかかれるとは嬉しい限りです
- `と言われた
- `東国の大名・小名が多く居並ぶ中には、京の者も数多くおり、また平家の家人だった者もあり、皆冷ややかに
- `ああ情けない
- `身を直し、かしこまっておられたところでお命など助かるものか
- `西国でどうにでもなるべき人が、生きながら囚われて、ここまで下ってくるのも頷ける
- `と言うと
- `まったくだ
- `と言う人もいれば、涙を流す人もいた
- `その中で、ある人が
- ``猛虎が深山にいるときは、百獣は震え恐れる
- ``檻の中に閉じ込められれば、虎は人に尾を揺って食い物をねだる
- `と言い、猛虎が深山にいる時は、百獣が恐れるというが、捕らえて檻の中に押しこめられた後は、尻尾を振って人に媚びるように、宗盛殿も勇猛な大将軍ではあるが、こうなった後は捕らわれた虎と同じだろう
- `と言う人々もあったという
- `義経殿はいろいろ陳情したが、景時が告げ口をしたので頼朝殿は却下された
- `宗盛殿・清宗殿父子をお連れして急いで京へ帰るようにとのことで、六月九日、また宗盛殿・清宗殿父子を預かって都へ戻られた
- `宗盛殿は一日でも生き延びられることを嬉しく思われていた
- `道すがらも
- `ここで処刑されるのか、それともここでか
- `とは思われたが、国々宿々をどんどん通り過ぎていった
- `尾張国に内海というところがある
- `先年、故左馬頭・源義朝殿が殺されたところなので
- `きっとここで処刑されるのだろう
- `と思われたが、そこも通り過ぎてしまったので
- `もしかして我が命は助かるのか
- `と思われたことがなんとも空しい
- `清宗殿は
- `助かることなど考えられない
- `こんなに暑い時期だから、首が腐らないようにと都近くになってから斬るんだろう
- `と思われたが、父の嘆かれるのがかわいそうで、そうは言わず、ただ念仏を唱えることを勧められていた
- `同・二十一日、近江国篠原の宿に到着した
- `昨日までは父子は一緒でおられたが、今朝からは引き離し別々にした
- `義経殿は情けある人なので、京まで残り三日となってからは、人を先に遣わし、父子を仏道へ導くためにと大原の本性房湛豪という聖を招いておられた
- `宗盛殿が本性房湛豪に向かって
- `ところで清宗はどこにいるのだろう
- `たとえ首を刎ねられても、骸は同じ筵に横たわろうと約束していたのに
- `早くもこの世で別れてしまったとは悲しいことだ
- `この十七年間、片時も離れず、京、鎌倉と恥を晒してきたのもあの清宗のためなのだ
- `と泣かれると、本性房湛豪も哀れに思ったが、自分まで弱気ではいけないと思ってか、涙をぬぐい、何事もない風を装って
- `誰も皆恩愛の道は絶てないものですので、本当にそう思われているのでしょう
- `この世に生を受けられて以来、昔も例がありません
- `天子の外戚で大臣の位にまで昇られたのです
- `今このような目に遭わることも前世の宿業ですから、世も人も神も仏もお恨みになってはなりません
- `大梵天が王宮で深遠な境地に入っておられるのも、短い間に過ぎません
- `短くはかないの下界の命ではなおさらのことです
- `帝釈天がお住まいの須弥山の頂上でも億千年は、夢のごとくであります
- `生きられた三十九年間も、わずかに一時の間です
- `不老不死の薬を舐めた人がいるでしょうか
- `不老長寿の神・東方朔や西王母と同じ命を得た人がいるでしょうか
- `秦の始皇帝が奢りを極めても、最後は驪山の塚に埋もれ、漢の武帝が命を惜まれても、むなしく杜陵の苔となって朽ちました
- ``命ある者は必ず滅ぶ
- ``釈尊まだ香木の煙で焼かれることから逃れられない
- ``楽しみ尽きて悲しみがやって来る
- ``天人でさえ臨終のとき死相を顕すのだ
- `といいます
- `ですから仏は
- `我が心自ら空にして、罪福は主無し、心を観ずるに心無く、法は法の中に住せず
- `と言われており、善も悪も空であると悟ることが、まさに仏の御心に叶うことなのです
- `どうして阿弥陀如来は五劫という長い年月修行して困難な願を発されているのに、どうして我らは生死の間を永遠に輪廻し、まるで宝の山に入りながら手ぶらで帰るがごとく、仏道へ赴けないのか、これぞ恨みの中の恨み、愚かしく、悔しいことではありませんか
- `もはや何もお考えなさいますな
- `と鐘を打ち鳴らし、しきりに念仏を勧めると、宗盛殿も
- `この聖こそ仏道への案内者だ
- `と思われ、すぐに妄念を翻し、西に向かって手を合わせ、声高に念仏しておられるところに、橘右馬允公長が太刀を構えて、左の方より背後に回ってまさに斬ろうとしたとき、宗盛殿は念仏を止め、合掌の手を返し
- `もう清宗も斬ったのか
- `と言われたことが哀れであった
- `公長が背後へ回った見えた瞬間、首は前に落ちた
- `この公長というのは先祖平家の家臣で、特に新中納言知盛殿に朝夕伺候していた侍であった
- `いくら世にへつらうのが常であるとはいえ、あまりにも非情ではないか
- `と、人は皆恥じ入った
- `本性房湛豪は、父親の時と同じように清宗殿にも戒を授け、念仏を唱えるように勧めた
- `清宗殿は、仏道へ導いてくれるの本性房湛豪に向かって
- `ところで父の最期はどのようでしたか
- `と尋ねられると
- `ご立派でした
- `ご安心召され
- `と答えたので、清宗殿は
- `もうこの世に思い残すことはない
- `さあ、早く斬れ
- `と首を伸ばして討たせられた
- `今度は堀弥太郎景光が斬った
- `義経殿が首を持たせて都へ上られた
- `骸を公長の指図で、親子をひとつの穴に埋めた
- `これは宗盛殿があまりに懇願したからである
- `同・二十三日、武士や検非違使が三条河原に出向き、平家の首を受け取った
- `三条を西へ、東洞院を北へ引き回し、獄門の左に生える栴檀の木に掛けられた
- `昔から公卿の位まで昇った人の首が大路を引き回されることは、異国ではその例もあるかもしれないが、我が国ではかつてなかったことである
- `平治の乱で藤原信頼殿はあれほどの悪人であったが、大路を引き回されることなく、平家に渡された
- `西国から帰っては、生きて六条を東へ引き回され、東国から上っては死んで三条を西へ引き回された
- `生きての恥、死んでの辱、どちらもひどいことである