一八二判官都落

現代語訳

  1. `足立新三郎清常という雑色がいた
  2. `あの者は身分は賤しいが頭が切れます
  3. `お使いなされ
  4. `と頼朝殿から義経殿に遣わされたが
  5. `秘密裏に義経の行動を調べて、報告するように
  6. `と命じられていた
  7. `土佐房昌俊が斬られるのを見て、夜昼休まず馳せ下り、この由をしかじかと伝えたところ、頼朝殿はおおいに驚き、舎弟の三河守・源範頼を討手として京へ行くように命じられたが、しきりに辞退されるので、厳命であると伝えると、仕方なく急いで武装して挨拶に参上すれば、頼朝殿は
  8. `そなたもまた義経のような真似はなさるなよ
  9. `と言われた
  10. `その言葉に恐れて、屋敷に帰り、甲冑を脱ぎ、上洛を思い留まられた
  11. `不忠はないとの起請文を一日に十枚ずつ、昼は書き、夜は頼朝殿の屋敷の庭で読み上げながら、百日に一千枚の起請文を書いて渡されたが、それでも認められずについに討たれてしまった
  1. `次に北条四郎時政に六万余騎を与え、討手として差し向けられると伝わると
  2. `しばらく九州の方へ落ち延びていようか
  3. `とも思われたが、緒方三郎維義は、平家の九州上陸を許さず、追い出すほどの勢力を持っていた
  4. `頼まれてほしい
  5. `と言われると
  6. `貴殿の臣下・菊池次郎高直は我が長年の敵なので、預かって首を刎ねてから手伝いましょう
  7. `と言った
  8. `義経殿はためらわず引き渡した
  9. `六条河原へ引き出して斬った
  10. `その後、維義は頼みを聞いた
  1. `同・元暦二年十一月二日、義経殿は院の御所に参上し、大蔵卿・高階泰経朝臣を通じて
  2. `いまさら申し上げることではないのですが、摂津国一の谷から長門国壇の浦に至るまで、平家を攻め滅ぼし、世を鎮め、国内を穏やかにした褒賞がいただけるべきところなのに、鎌倉の頼朝は郎等たちの告げ口によって私を討とうとしております
  3. `しばらく九州の方へでも落ち延びようと思っております
  4. `なんとか院の御下文を一通いただけないでしょうか
  5. `一生のお願いでございます
  6. `と奏聞すると、後白河法皇は
  7. `頼朝がこれを聞いたらどうなるだろう
  8. `と思い煩われ、公卿たちに相談された
  1. `公卿たちは
  2. `義経が都におれば、東国の軍勢が乱入して京の騒動が絶えることはないでしょう
  3. `しばらく九州の方へでも落ち延びれば、その恐れもないでしょう
  4. `と言われるので
  5. `ならば
  6. `と、九州の緒方三郎惟義をはじめとして、臼杵、戸次、松浦党に至るまで、皆義経の下知に従うよう院の御下文を賜って、翌・三日、都に少しの問題も起こさず、波風も立てずに、その勢五百余騎で下向した
  1. `さて、これを知った摂津国源氏・太田太郎頼基は
  2. `我が門前を、矢の一筋も射ずに通過させたりすれば、頼朝殿の耳にも入るだろうから、ここはひとつ矢を射かけよう
  3. `と、手勢六十騎余騎で河原津というところに追いついて攻め戦った
  4. `義経殿の五百余騎が取って返し、頼基の六十余騎を取り囲んで
  5. `逃がすな、討ち洩らすな、殺せ
  6. `と激しく攻められると、頼基は馬の太腹を射られ、仕方なく退却した
  7. `残り留まって防ぎ矢を射ていた兵たち二十余人の首を刎ねて晒し、軍神に祭ると、鬨の声を上げ
  8. `いい門出だ
  9. `と喜ばれた
  10. `摂津国大物の浦から舟で下られたが、ちょうど西の風が激しく吹いていて、義経殿の乗られた舟は住吉の浦に打ち上げられ、そこから吉野山にこもられたのである
  1. `吉野の法師に攻められて、奈良へ落ちた
  2. `奈良の法師に攻められて、また帰京し、北国を抜けて、ついに奥州に下られた
  3. `そして、義経殿が京から連れてこられた十余人の女房たちを住吉の浦に捨てて行かれると、あるいは松の根、苔の莚に倒れ臥し、あるいは真砂の上に片袖を敷いて泣いていたのを、住吉の神官がこれを憐れみ、乗物などを用意して全員を京に送った
  4. `義経殿が最も頼りにしていた緒方三郎維義、信太三郎先生義教、十郎蔵人・源行家たちが乗った舟も、浦々島々に打ち上げられて、互いにその行方もわからなくなってしまった
  5. `西の風が突然吹きけるのは平家の怨霊のせいだと言われている
  1. `同・元暦二年十一月七日の夜に入り、北条四郎時政が六万余騎を率いて上洛した
  2. `八日に院の御所に参上して
  3. `伊予守・源義経並びに備前守・源行家追討の院宣をいただきたい
  4. `と奏聞すると、法皇はすぐに院宣を下された
  1. `去る二日には義経殿が願い出たとおり、頼朝に背くべき由の院の御下文を出され、同・八日は頼朝殿の申し状に応えて、義経殿を討てとの院宣を下された
  2. `朝令暮改とはこのことで、不安定な世の中であるといえども悲しいことである
  1. `日本国の惣追捕使を賜り、反別割で所領から兵糧米を収めるよう頼朝殿が公家に伝えられると、法皇は
  2. `朝敵を鎮圧した者は国の半分を賜る
  3. `ということが無量義経に書かれている
  4. `頼朝の要求は多すぎる
  5. `と諸卿に言われた
  1. `諸卿は
  2. `頼朝殿の言われることも半ば道理である
  3. `と諸国に守護を、荘園に地頭を置かれた
  4. `こうなると、髪の毛一本ほども隠しようがなくなった
  5. `頼朝殿はこうしたことを大納言・吉田経房殿を通じて言われた
  1. `この経房殿は優に理無い人だと言われている
  2. `そのわけは、平家が滅び、源氏の世になって後、いかなる人も、あるいは文を送り、あるいは使者を立てて、あれこれへつらわれても、経房殿はそのようなことはなさらなかった
  3. `平家の悪行によって、法皇を鳥羽の城南離宮に軟禁し、院の御所の別当を置かれたときには、八条中納言・藤原長方殿と経房殿二人を五位侍中に任じられた
  4. `権右中弁・藤原光房朝臣の子である
  5. `ところが十二歳のとき、父の光房殿が亡くなり、孤児になられたが、五位蔵人・衛門佐・便官の三職の兼任して蔵人頭を経、参議、大弁、太宰帥、中納言、大納言と昇進された
  6. `人を越えたことはあっても、人に越えられたことはなかった
  7. `それゆえ善悪は、錐が穴を通すがごとく、隠していてもいつかはわかってしまうものである
  8. `世に稀な大納言である