二 安元の大火
原文
- `およそ物の心を知りしより以来四十余の春秋を送れる間に世の不思議を見ることやや度々になりぬ
- `いぬる安元三年四月二十八日かとよ
- `風烈しく吹きて静ならざりし夜戌の時ばかり都の巽より火出で来たりて乾に至る
- `果てには朱雀門大極殿大学寮民部省まで移りて一夜が程に塵灰となりにき
- `火元は樋口富小路とかや
- `病人を宿せる仮屋より出で来けるとなん
- `吹き迷ふ風にとかく移り行くほどに扇を広げたるが如く末広になりぬ
- `遠き家は煙にむせび近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり
- `空には灰を吹き立てたれば火の光に映じてあまねく紅なる中に風に堪へず吹き切られたる焔飛ぶが如くにして一二町を越えつつ移り行く
- `その中の人現心ならんや
- `或は煙にむせびて倒れ伏し或は焔にまぐれて忽ちに死にぬ
- `或はまたわづかに身一つ辛くして遁れたれども資材を取り出づるに及ばず七珍万宝さながら灰燼となりにき
- `その費いくそばくぞ
- `このたび公卿の家十六焼けたり
- `ましてその外は数を知らず
- `すべて都のうち三分が一に及べりとぞ
- `男女死ぬる者数千人馬牛の類辺際を知らず
- `人の営みみな愚かなる中にさしも危き京中の家を作るとて宝を費し心を悩ますことは勝れてあぢきなくぞ侍るべき