五 養和の飢饉
原文
- `また養和の頃かとよ
- `久しくなりてたしかにも覚えず
- `二年が間世の中飢渇してあさましきこと侍りき
- `或は春夏日照り或は秋冬大風大水などよからぬ事どもうち続きて五穀悉く実らず
- `空しく春耕し夏植うる営みのみありて秋刈り冬収むるぞめきはなし
- `これによりて国々の民或は地を捨てて境を出で或は家を忘れて山に住む
- `様々の御祈始まりてなべてならぬ法ども行はるれども更にその験なし
- `京の習ひ何わざにつけても源は田舎をこそ頼めるに絶えて上る物なければさのみやは操も作りあへん
- `念じ侘びつつ宝物かたはしより捨つるが如くすれども更に目見たつる人もなし
- `たまたま易ふる者は金を軽くし粟を重くす
- `乞食道の辺に多く愁へ悲しぶ声耳に満てり
- `前の年かくの如く辛くして暮れぬ
- `明くる年は立ち直るべきかと思ふにあまさへ疫病うちそひてまさるやうに跡方なし
- `世の人皆飢ゑ死にければ日を経つつきはまり行く様少水の魚の譬へに叶へり
- `果てには笠うち著足引き包みよろしき姿したる者ひたすらに家ごとに乞ひ歩く
- `かく侘びしれたる者ども歩くかと見れば即ち倒れ死ぬ
- `築地のつら路頭に飢ゑ死ぬる類は数も知らず
- `取り捨つるわざもなければ臭き香世界に満ち満ちて変り行くかたち有様目も当てられぬこと多かり
- `況んや河原などには馬車の行き交う道だにもなし
- `賤山がつも力尽きて薪さへ乏しくなりゆけば頼む方なき人は自ら家を毀ちて市に出でてこれを売るに一人が持ち出でたる価なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ
- `怪しき事はかかる薪の中に丹つき白銀黄金の箔など所々に付きて見ゆる木の割れあひまじれり
- `これを尋ぬればすべき方なき者の古寺にいたりて仏を盗み堂の物の具を破り取りて割り砕けるなりけり
- `濁悪の世にしも生れ逢ひてかかる心憂きわざをなん見侍りし
- `またあはれなること侍りき
- `さり難き女男持ちたる者はその思ひまさりてこころざし深きは必ず先立ちて死しぬ
- `その故は我が身をば次になして男にもあれ女にもあれいたはしく思ふ方にたまたま乞ひ得たる物をもまづ譲るによりてなり
- `されば親子あるものは定まれる事にて親ぞ先立ちて死にける
- `また母が命尽きて臥せるをも知らずしていとけなき子のその乳房に吸ひつきつつ臥せるなどもありけり
- `仁和寺に隆暁法印といふ人かくしつつ数知らず死ぬることを悲しみて聖を数多かたらひつつその死首の見ゆるごとに額に阿字を書きて縁を結ばしむるわざをなんせられける
- `その人数を知らんとて四五両月がほど数経たりければ京の中一条より南九条より北京極より西朱雀より東道の辺にある頭すべて四万二千三百余なんありける
- `況んやその前後に死ぬる者多く河原白河西の京もろもろの辺地などを加へて云はば際限もあるべからず
- `いかに況んや諸国七道をや
- `近くは崇徳院の御位のとき長承の頃かとよ
- `かかる例しはありけりと聞けどその世の有様は知らず
- `目の当たりいとめづらかにかなしかりしことなり